ストーリー、新着情報
最初に
片眼が潰れたそのネコは、反対の眼も白濁していた。
生まれつき眼に障害があるそのネコを見て人は
「かわいそう」「不憫だね」
そんな言葉や態度を投げかける。
だけれどそのネコは、そんな眼のことなんて気にもとめず、自分が好きな時に好きなことをして生きている。
誰に何を思われるとか、どうでもいいと言わんばかりに。
私はそんなネコの生き様を尊敬し、愛している。
生い立ち
私が生まれたのは母が19歳の時だった。
「あんたがお腹に居たのに気が付かなくて、普通に部活でバスケしてたわ!
あんたの入ってるお腹にもボール当ってたけど、あんたは元気に産まれてきたんやで。」
母はそんな話を聞かせてくれた。
若くして妊娠し、結婚した母は、私が生まれるときから離婚するかも知れないと予期していたそうだ。
私の2歳誕生日。
父は家ではなく、母の友人の女性と一緒に居たそうだ。
それが決定的になり、両親は離婚した。
写真でも手くらいしか写っておらず、私は父の顔も知らない。
私の顔と声は父に似ているそうだけど。
シングルマザーとして、昼は保険の営業、夜は親戚の経営するラウンジで働いていた母。
一人っ子の私は鍵っ子だった。
けれど私は寂しさを感じたことがなかった。
母は厳しい人で、門限を破ると家に入れてくれなかったし、よく叱られた。
けれど理不尽に怒る人ではなかった。
一生懸命私に愛情を持って育ててくれた人だ。
その愛情の深さを幼いながらに感じていたから、私は満たされていたのだろう。
また、私が満たされていたのは、母だけでなく、祖母とネコの存在が大きい。
夜になると鳴り響くチャルメラの音。
「おばあちゃん!ラーメン屋さん来た!行きたい!」
そう言う私に祖母はいつも笑顔で
「いいね、行こうか。」
そう言ってくれた。
祖母は私がしたいことを必ずさせてくれた。
私は祖母に沢山沢山甘えさせてもらえた。
母からもらう厳しい愛と、祖母からもらう無償の愛。
このバランスが良かったのだろう。
私は自分を不幸だと思う事もなく。
父の愛を求めることもなく。
我慢することは多かったけれど、それでも道から逸れず満たされた生活を送っていた。
祖母と母が動物好きなこともあり、
私が生まれたときには既に側にネコが居た。
威風堂々と自分らしく自由に生きる姿も。
甘えて寄り添う可愛らしさも。
牙を剥いて拒否する姿勢も。
その全てが大好きだ。
子どもの頃から一緒に育ってきた動物だからだろうか。
祖母も母も大好きな生き物だからだろうか。
ネコの毛一本でさえも愛おしい。
誰が付けたか分からないがネコという名前さえも愛おしい。
人間という言葉に心動かされたことは1ミリもないけれど、
ネコという響きだけで私は酔えるほど彼らに心酔している。
そんな優しく可愛く大好きな祖母とネコがいつも居てくれる生活は、幸せだった。
世間からどう思われようが、そんなのは私の人生に全く関係ない。
そう思える生き方が出来たのは、祖母やネコの存在が大きかったのだろう。
私が中学生になるタイミングで母は再婚をした。
小学生の間ではなく、中学進学のタイミングの方が、名字が変わってもそこまで影響は無いのではないか。
母と義父が配慮してくれたタイミングだった。
私は賛成も反対もしなかった。
‘母は母の人生を生きるべきだ。’
そう考えていたからだ。
ただ、再婚した義父はネコが苦手だったので、そこだけは‘信じられない!’と密かに思っていたけれど。
「あなたに兄弟を産んであげたくて。」
母は再婚した理由をそう言っていた。
そして宣言通り再婚して2年後に15歳差の弟が産まれた。
それまでとは違う新しい家族の形になったけれど、私はそれも特に拒否感なく受け入れられた。
母が幸せそうならそれで良いし、弟も可愛らしい。
それに中学生にもなると、家庭よりも学校や友達付き合いの方が楽しくて忙しくなる。
私は中学時代吹奏楽部に所属していた。
優しい先輩が多く、和気あいあいとした部活動。
相棒になったバリトンサックスとも相性がよく、充実した日々を過ごしていた。
音楽好きな私がその頃ドハマリしたバンドがORANGE RANGE。
特にドラマーの演奏に魅了された。
‘ドラムをしてみたい!’
そんな私の希望を聞いて、両親はドラム教室に通わせてくれた。
「再婚するまでは経済的に習い事を十分させてあげられなかったから。」
母は少し申し訳なさそうに言った。
私はドラムが楽しくて、高校に入学すると軽音学部に入った。
選んだ楽器はもちろんドラムだった。
笑顔の青春
高校時代。
私はまさに青春を謳歌していた。
振り返っても、楽しい思い出しか出てこない。
たまたまクラスで仲良くなった8人組。
こんなにも意気投合できる友達が出来るなんて軌跡だと思えるくらい、私たちはいつも笑い転げていた。
鉛筆が転がるだけで大爆笑出来るお年頃だ。
皆が笑ってくれることが嬉しくて、先生の真似をしてみたり。
ふざけ合って、ケラケラ笑い合った日々は私の宝物だ。
反抗期?
反抗する時間なんてないほど、私は笑顔で過ごす時間で忙しかった。
その頃私はブログにハマっていた。
時はまだガラケー時代。
その日学校であった面白いネタをネタ帳にこっそりかき集め、文字通りブログ(日記)に書き記していた。
ブログを読んだ友人達は
「こんなに細かくよく覚えてるね!」
「あかん!思い出したら笑いがとまらん!」
など沢山コメントをくれた。
毎日起るキラキラした楽しく面白い出来事を残したい。
そんな思いつきで始めたブログ。
結局高校3年間書き続けた。
私の文章を書く力は、この‘ガラケーでブログを書いた日々’が育んでくれた。
学校や部活が終わると、夜や休日は牛丼屋さんでアルバイトをした。
人生初のアルバイト。
私は‘お金を貯める快感’を知ってしまう。
働いた分だけ貯金額が増えていく。
なんて楽しいんだろう。
「趣味は貯金です。」
そう言ってしまうような女子高生だった。
使う目的があるから働くというよりも、
貯金額が増えていくのが楽しかった。
数学は好きではないが、数字が増えていくのが大好きだった。
趣味が高じて、私はバイト先で‘一人で店を任せられるランク’まで登り詰めていた。
金銀銅と色分けされたバッジがあるなかで、銀バッチを渡されたとき、
‘私は販売が得意かも’そう自信に繋がった。
責任
楽しい高校生活はあっという間に過ぎ、進路を決めなくてはならなくなった。
私は成績上位(常にトップ3には居た)ので、大学進学を勧められた。
しかし私は就職を選んだ。
進学を希望しなかったのかと聞かれれば、大学に行きたい気持ちはあった。
けれど、正直、大学費用を出して欲しいと親に言いにくかった。
家にはまだ手のかかる幼い弟もいる。
私には、母がまだシングルマザーだった時の‘我慢して諦める癖’があった。
‘あの習い事してみたい!‘と思っても、無理だった記憶。
子どもの習い事の比にならないくらいお金のかかる大学になんて行けない。
きっと私の進学に対する熱量はその程度だったんだろう。
大学に行くよりも、お金を稼ぎたい。
アルバイトで得たお金を貯める快感(趣味)も私を就職へと導いた。
私は両親に相談せず、進路希望表に就職と記載した。
就職先に決めたのは、本町にある総合卸問屋。
いくつかある就職候補を母に見せると、「この会社有名よね!お母さん知ってる。」そう言っていた会社だった。
特に熱い想いを持って選んだわけではなかったが、得意な販売と、お金稼ぎという趣味の為に、私は社会人1年生としてデビューした。
勤め先には私と同じく高校を卒業したばかりの同期が20人いた。
1年間は研修をかねて、新人は全員レジ打ちを担当した。
学生生活の延長のような環境で、楽しく働いきつつ、少し緊張もしていた。
というのも、1年間の研修を終えると、新人はその適正を判断され、それぞれ担当部署に異動になる。
勤め先は総合卸問屋なので、アパレルから日用品まで色んなジャンルを取り扱っていた。
新人達はどの部署に配属されるのかドキドキしながら1年を過ごすことになる。
というのも、部署によって、すごく優しい先輩がいるという噂の部署もあれば、スパルタ過ぎて新人はすぐ辞めるという噂の絶えない部署もあったからだ。
私は密かに受付を狙っていた。
会社の顔であり、他の部署とは違う可愛らしい制服を着て仕事をする受付担当の先輩の姿に憧れていたからだ。
私は1年間、受付にふさわしいように、ニコニコ笑顔を絶やさす一生懸命働いた。
そして迎えた部署発表の日。
私は新人泣かせで有名な女の園の部署‘ランジエリーファンデーション部’、
通称ランファンに配属された。
この日私は人生で初めて‘膝から崩れ落ちる感覚’を味わった。
配属された‘ランファン部’には二大巨頭が君臨していた。
一人目は部門長。バリバリのキャリアウーマンで自分にも他人にも厳しい人と言われていた。
二人目は、そんな部門長よりも更に怖いが仕事が出来る鬼先輩として、数々の噂、いや伝説をまき散らしている先輩だった。
私の笑顔の1年間は、そんな二大巨頭でも耐えられるというアピールのためだったわけでは無いのに。
そんな想いは空しく、配属先での勤務が始まった。
当時。
私は相当悲壮な顔をしていたのだろう。
通勤中の電車。
電車の扉が開くと、駅員さんが血相変えて私の所にやってきて
「大丈夫ですか?気分悪いですか?」
そう聞かれた。
自覚は無かったが、毎日吐きそうな顔をして出社していたのだろうと今では思う。
しかし、怖くても、しばかれそうでも、与えられた仕事なんだから、私に出来ることをするしかない。
そう考えていた。
「新人だからという言い訳は通用しない。
出来る事を精一杯しなければ。」
常に先輩の真似をして、素早く、丁寧に、求められるほんの少し更に上のことを。
今の私に出来ることを一生懸命。
言われなくても先輩よりも早く出社して検品する。
他の社員さんがしていなくても、先輩が大きな声で「いらっしゃいませ!」と言っていたら、私も先輩に負けないくらい元気に「いらっしゃいませ!」と叫ぶ。
だが、私は運が良かった。
配属先に徐々に慣れてくると、先輩も部門長もとても仕事が出来る人だということが新人の私でも十分に分かった。
仕入れた商品は完璧に売れる。
売上げも順調に伸ばしている。
仕事はとても丁寧で、周りをよく見ている。
いつ‘しばかれるだろう’という鬼のような迫力におびえながらも、先輩の仕事を間近で勉強させてもらうことで、私はとても刺激を受けていた。
ある日、そんな先輩から一冊のお手製マニュアルを頂いた。
可愛いイラスト入りでとても読みやすいそのマニュアルには、売上げ表の管理や、経理の考え方など。
私が苦手そうな分野について、とても丁寧に書かれていた。
「これで分かりそう?」
「はい!ありがとうございます!!」
理不尽に厳しいわけじゃない。
言うべき事はしっかり指導する。
仕事に責任と誇りを持って働く。
先輩はそんなカッコイイ女性だった。
先輩の背中を必死に追いかけた。
配属されて1年も経たない頃、その先輩が別の店舗に異動することになった。
とてつもない開放感と、とてつもない喪失感におそわれた。
おびえる日々からは解放されたが、仕事が出来るお手本である先輩がいなくなるのは不安だった。
部門の売上げも、先輩が率先して叩きだしていたものだったので、不安が募った。
もちろん出来る部門長が居てくれたおかげで、部門売上げを下げることはなかったが、私は先輩のように数字で結果が出せない自分に苛立ちを覚えた。
任される仕事内容も増えていくが、自分でなにか作り上げていくというよりも、先輩達の成功例を真似てやり過ごす日々。
「頑張ってるね」「頼むよ」
そんな言葉を投げかけて頂ければ、頂くほど、申し訳ない気持ちが膨らんでいく。
‘そんなぬるいこと言わないでください。
まだまだです。‘
心の中でつぶやいた。
私は給与以上の仕事が出来ているのだろうか。
出来る先輩や部門長の働きぶりを目の当たりにしてしまった私。
仕事を頑張るなんて当たり前。
それよりも利益を出さなくては。
それでこそ仕事だ。
どうしてもそう考えてしまう。
会社にとって第1は利益。
売上げの数字を思ったように上げることが出来ない私は販売には向いていない。
そう考えるようになった。
貢献出来ていないという申し訳なさに押しつぶされそうになる。
立ち仕事で足はパンパンにむくむ。
貯金通帳に貯まるお金を見ても、そこまで嬉しいと思えなくなってきた。
そんな時だった。
高校時代から付き合っていた3歳年上の優しい彼からプロポーズされた。
転機
働き出して3年経っていた。
夜勤のある彼との生活リズムのずれも感じていた。
一度販売の仕事から距離を置きたい。
結婚を機に、私は退職をした。
「でもあなた、新婚だし子どもさんが出来るかもしれないわよね。」
退職後、私は大好きな動物と関われる仕事がしたいと獣医の補助の仕事を探していた。
けれど、面接に行く先々で言われるのは
‘子どもさんが出来るかもしれないでしょ?’
という言葉だった。
採用企業側としては当然だ。
20代前半。
新婚。
採用しても、すぐに産休となれば、痛手だ。
私が採用担当でも二の足を踏む。
私自身はすぐに子どもが欲しいとも、ましてや専業主婦になろうとも思っていなかった。
子どもが大好きというわけではなかったし、趣味の貯金を辞める気持ちもサラサラなかった。
ハローワークで求人を見ていたところ、家の近くに受付、物療補助の正社員募集が出ていることに気が付いた。
山中鍼灸整骨院だった。
‘ネコはいないけれど、販売の仕事ではないし、家の近くだし行ってみよう。’
私はすぐに面接を希望した。
望んだ面接。
対応してくれたのは受付の東さんと藤原先生。
後に家族より多くの時間を共に過ごすことになる東さん。
初対面での印象は‘おっかない人’だった。
とにかくパワフルで、大きな通る声で言われたのは、これまで散々言われてきた言葉。
「あなた、新婚さんやし、これから子どもさんも考えてるんとちがう??」
あぁ、やっぱりな。
そう思った。
「いえ、まだすぐに欲しいとは思ってないんです。」
そう答えたけれど、どこも不採用だった。
ここも無理か。
またハローワークに行かないとな。
そう思っていると、翌日採用のお電話を頂いた。
まさかの連絡に驚いた。
22歳の時だった。
それから早くも11年。
私は山中鍼灸整骨院でこんなにも長くお世話になると思いもしなかった。
働き出してから、初対面でおっかないと思っていた東さんは、とても優しく人情味がある温かい人柄だった。
色々と教えてくれた山本先生は実は年下だったことにしばらくしてから気が付いた。
勤続年数も長く、当時はギャルみたいな見た目だったのですっかり先輩だと思い込んでいた。
物療を教えてくれた本田先生は今と同じくテキパキテキパキ要領よく指導してくれた。今のようにフランクには話せなかったが、面倒見のいい先輩だと感じた。
前職と比べものにならないほどアットホームな山中鍼灸整骨院の雰囲気はとても居心地が良かった。
来院される患者様たちもとてもいい人たちばかり。
先生達や東さん含めた先輩たちが築いてきてくれた信頼あってのことだろう。
わいわい楽しく働き、慣れてきた頃、私は長男を妊娠した。
「私妊娠したかもしれないんです。」
同じく受付の社員さんである伊藤さんにそう告げたとき、伊藤さんが目を丸くして
「えっ!!私もやで!!」と言ったことを私は多分一生忘れない。
当時受付の社員は3人。
そのうち2人が同時に産休に入る。
なんと伊藤さんと予定日も酷似していたのだ。
今まで3人でやってきた仕事を、一気に2人が抜けて1人残される東さんのプレッシャーは相当だっただろう。
「美容室で、東さん髪の毛抜けてる!って言われたわ!」
東さんが脱毛症になった時は、申し訳なさ過ぎて、言葉も出なかった。
見事に10円以上、100円玉ほど髪の毛が抜け落ちた頭皮を見て、
優しい言葉とは裏腹に、相当なプレッシャーを与えてしまっていた事に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
真面目な性格の東さん。
あの頃を思い出すと、本当に足を向けて寝られない。
妊娠中。
私は悪阻で2ヶ月ほど廃人のようだった。
ただでさえ産休でお休みをもらうのにしっかり働かなければと思いつつ、気持ち悪さで動けない。
そんな時にいつも周りのスタッフが優しく声をかけてくれた。
「辛そうやで、上で寝とき!」と声をかけてくれる東さんに涙が出た。
まるで家族のように、労ってくれるスタッフ。
迷惑をかけているにも関わらず。
私はこの恩を絶対返さなければと心に決めた。
覚悟
息子は安産で産まれてきてくれた。
初めての新生児との生活は、それまでの私の生活を一変させた。
予想を超えるストレスだった。
私は自由が好きだ。
好きな時に好きな事をしていたい。
しかし子どもが出来たらそんな事は言っていられない。
3時間おきの授乳。
夜泣き。
自分の時間どころか、まともに休めない日々。
私は子どもが可愛くて可愛くて仕方がないと言うよりも、息子の親としてその責務を果たさなければならないという気持ちで育児に当っていた。
もともと母性本能が強い方ではないのだろう。
でも、女として産まれ、結婚したら、25歳頃に出産し、30歳手前で2人目を出産する。
なんとなくそんな思い込みがあった。
そして本当に25歳で出産した私。
やはり本能で息子を溺愛する母と言うよりも、息子を一個人として尊重し、彼の幸せを第1に考えつつも、どこかで自分の自由を奪われた辛さを抱えていた。
息子はかけがえのない存在だ。
彼は私の宝物だ。
だが、私は母親には向いていないのかもしれない。
そう何度も思った。
とは言え、産んだからには育てねばならぬ。
息子が一歳になる前に私は職場復帰をした。
同じ頃第二子を出産した伊藤さんも同じく帰って来た。
赤子連れで出勤して良い。
山中鍼灸整骨院からそう言われたときは、本当にありがたかった。
子どもを見ながら受付は辛いだろうから、バックスペースでも出来る事務仕事からということで、私は広告作成や、書類作成などを引き受けた。
伝えたいことを分かりやすく伝えるには。
目を引くキャッチコピーとは。
色んなことを手探りだが挑戦させてもらえた。
家で息子と二人きりでいるよりも、社会に出て働かせてもらえる環境の方が、気も紛れた。
働きながら育児する方が私にはあっていた。
その頃、山中鍼灸整骨院は保険施術を休止するという大英断をした。
患部だけの施術ではなく、予防に特化してより患者様の健康な毎日に貢献したいという山中先生の悲願だった。
ただ、保険施術ではなく自費施術メインにすると、来院頻度が下がってしまう。
今まで毎日のように来院して身体のメンテナンスをしていた患者様たちにとって、リズムが変わるのはよくない。
そこで山中鍼灸整骨院の1Fに、保険施術で通うよりも安く、施術だけでなく運動も出来るヤマナカ健康サロンが出来た。
地域の健康寿命を延ばすがコンセプトのこのサロンの初代リーダーに私は抜擢された。
サロンを立ち上げ、運営、経営を安定させるまで。
私はとにかく必死だった。
何もかも初めてで、何が正解かも分からない。
いや正解もない。
ただ会員さんが喜んでくれることをと考えて必死にやっていた。
しかし、健康サロンの経営は常に赤字ギリギリだった。
元々低価格でのメニュー構成。
他のスポーツジムとの差別化で利益度外視で盛り込むイベント。
認知度をあげる為の広告戦略。
色々手を打つが、なかなか利益が伸びない。
来てくれる会員さんたちの満足度は確かに高い。
それまで運動嫌いだった方々が、施術を受けて運動してどんどん若返っていくのを見ていて実感していた。
しかし、利益が出なければ、会社としては成り立たない。
私は本当に数字を上げるのが苦手だ。
前職での苦い経験を思い出す。
「サロンは地域貢献だから。」
そう言ってくれるのは最初だけ。
企業として利益が出ていない部門は、続けるのは難しい。
給与以上の貢献が出来ていないことが心苦しい。
‘山中鍼灸整骨院で働けるのも、あと少しかな・・・。’
数字が伸びず、そう覚悟していた頃、山中オーナーに声をかけられる。
「ECサイトが面白そうなんだ。成功ノウハウを教えてもらえるから、やってみないか?」
山中鍼灸整骨院楽天市場店が開店した。
選択
「これからは店舗販売だけではなく、ネット通販も利用して物販での利益拡充を狙いましょう。
人件費を抑え、しっかり利益を出していけます。
その成功のノウハウは・・・。」
私は楽天市場での販売ノウハウがまとめられたマニュアル動画を食い入るように見つめていた。
講師の先生は、今では私は師匠と呼んでいる。
この師匠が言うとおりにすれば、本当に売上げが上がるのだ。
「面白そうだからやってみて。」
山中オーナーは、そうやってチャンスをくれた。
「まずは何を売るかを決めましょう。出来れば自分も欲しくなる物がいい。一番のペルソナ(お客様像)は自分だと考えて選んでみてください。」
私は考えた。
私は何が欲しいだろう。
また鍼灸整骨院らしいもので。
色んな検索をする中で、前職時代足がぱんぱんにむくんで辛かった事を思い出した。
「あの頃、とにかく足を楽にしたかったな。」
マッサージ器具・足のむくみ
調べてみると、マッサージローラーという商品が目にとまった。
「これだ!!!」
私はすぐに山中オーナーにサンプル依頼をかけて良いか相談した。
山中鍼灸整骨院楽天市場店を開業してから、最初はなかなか売上げは上がらなかった。
「ランキング上位になることが大切。口コミをもらってください。」
師匠の言葉を信じ、山中鍼灸整骨院に来られる患者様にもお手伝い頂いたり、色んな作戦を考え口コミをもらっていった。
実に地道な道のりだった。
あるときたまたま有名ブロガーさんに取り上げられて認知度があがったり。
あるときたまたまTVに似た商品が出ていて認知度があがったり。
色んなことをコツコツと経験し、すぐに結果が出なくても、師匠の言葉を信じ諦めずやり続けた結果、今では部門ランキング上位に入り、売上げも整骨院一店舗ほどの数字を出せるようになった。
やっと、数字の面で会社に貢献出来た。いや、まだまだこれからだ。
今ではそう考えている。
売上げという数字で結果が残せたのは、私の実力ではない。
私が試行錯誤した結果だとキラキラしたシンデレラストーリーを語ればいいじゃないと言う人はいるけれど、とんでもない。
私はただ人と環境に恵まれただけだ。
資金面も含め、挑戦出来る環境を山中オーナーに与えてもらい、成功ノウハウを師匠含め惜しみなく教えて下さる方々に出会えた。
山中鍼灸整骨院が所属するヤマナカグループが働きやすいように、時間も働き方も自由にしてくれた。
スタッフも私が働きやすいよういつも気にかけてくれている。
これらがパズルのピースのように全部揃っていたから、売上げという数字の結果が出てきた。
もしどれか一つでもかけていたら、結果が違っていた。
ただ、一つだけ私は楽天市場店を開始してからこだわっていることがある。
それは口コミを下さった購入者様に特典をお送りする際に、手書きのお手紙を書くことだ。
必ず手書きにしている。
デジタルの時代。
AIの時代。
ECサイトを通しての物のやり取りは相手の顔も見なければ声も聞けない。
それでも商いは成立するが、人と人との交流であることには違いない。
売り手の私たちの想いを知って欲しい。
買って頂いた感謝の気持ちを伝えたい。
それには手書きがいい。
そう決めている。
ほとんどがすぐに捨てられているかもしれないが
「手書きのお手紙が入っていて感動しました!こういう心配りが嬉しいです。」
そういう口コミを頂く限り、
いや頂かなくても、私はここにはこだわり続けたい。
売上げがあがり、山中鍼灸整骨院楽天市場店にファンがついてきた実感が出てきた頃、OEMに挑戦しないかという新しい挑戦のチャンスを山中オーナーから言って頂いた。
沢山の試行錯誤の結果、2024年の冬には入浴剤を販売予定だ。
鍼灸整骨院らしく
入浴✖体質改善
OEM先のメーカーさんと度重なるサンプル作り。
コンセプトの検討。
物作りの大変さと楽しさを感じる日々だった。
出来上がった商品はまるで我が子のように感じる。
お客様の元に届けるのが待ち遠しい。
その他にも、第三弾、第四弾商品の提案を考え検討している。
自由
今まで山中鍼灸整骨院の受付として院内業務をしている時には気が付かなかったが、楽天市場店を初めて、対外的な仕事も増える中で、遊ぶように働いている経営者の方が多いことに驚いた。
こんなにも楽しく遊んでいるのに、しっかり稼いでいる。
私もそうなりたい。
大人だから
社会人だから
男だから、女だから
知らない間に築き上げていた既成概念が崩れていくのを感じていた。
周りに居る、私がカッコイイと思う人たちは、皆自由で自分を解放していた。
常識も既成概念もサラッとぶち壊し、
‘私は私がやりたい時にやりたい事をする’を実行していた。
‘自由でいいんだ’
そう思えると、なんだか肩が軽くなる感覚を覚えた。
女だから家事をして、子育てして、夫をたてて。
働くなら正社員で決まった時間に勤務して。
今までのなんとなくすり込まれてきた常識が30歳手前で揺らいでくるのを感じていた。
予想では30歳手前で第二子を授かるはずだった私。
その予想は外れ、そして30歳になってから、夫と離婚をした。
高校生からずっと一緒にいた彼はとても優しい人だった。
怒ることもないし、私の決断を否定することもなかった。
良い夫であり、良い父親でもあった。
だが、私はどうしても彼とこれ以上の未来を想像出来なかった。
私の中で、‘兄弟を作ってあげるべし。’という常識があった。
兄弟は居た方がいいだろうと思い込んでいた。
だが、ようやく息子が成長し、仕事が楽しくなってくるなかで、また新生児を抱えて1から育児をする気になれなかった。
自分の中の常識が一つ崩れると、
それまで持っていた常識に疑問を感じるようになった。
私の人生は本当にこの常識に囚われていていいんだろうか。
私はそれが幸せなんだろうか。
夫と子どもと仕事に恵まれて贅沢な悩みだろう。
でも、私の中で、結婚という契約に縛られている状況がどうしても不自由さを感じて仕方なくなっていった。
一度感じた不自由さは、拭いきれない。
結婚が目に見えない足かせのように感じだした。
もっと自由に、色んなことを経験して、私らしく生きてみたい。
夫と息子には罪悪感があった。
私が自由を求めるほどに彼らを傷つけてしまう。
私が幸せになりたいように、あなたにも幸せになって欲しい。
私と一緒にいても、私はあなたを幸せにしてあげられない。
あなたと一緒にいても、私はあなたと過ごす以上の幸せを求めてしまう。
そして私たちは離婚した。
シングルマザーとして私を必死に育てた母にはギリギリまで言えなかった。
心配をかけることが目に見えていたから。
私のワガママを叱責されるかもしれないという不安もあった。
叱責されても、私の想いは揺るがない。
叱責されて、母と険悪になるのが嫌だった。
代りにわたしの想いを受け止めてくれたのは、祖母だった。
私の話を良く聞いてくれた。そして私の気持ちを受け止めてくれた。
その後、母も同じく私の想いをしっかり受け止めてくれた。
私の心配は杞憂に終わった。
また、私の想いを受け止めてくれたのは祖母や母だけでは無かった。
当時、自由になりたいという自分の素直な想いと、家族を傷つけてしまうという罪悪感の狭間で悩んでいた私に寄り添ってくれたのは、奈良の母と慕うヤマナカグループのみゆき先生だった。
みゆき先生は、いつも私に必要な言葉を与えてくれた。
見放すことはせず、常に心を傾けて寄り添ってくれた。
その安心感と信頼感。母親に似た包容力は、私を勇気づけてくれた。
心も身体もボロボロの時、普段見せない弱音を吐けるのも、みゆき先生だった。
そして彼女はあるがままの私を受け止め、癒してくれた。
奈良の母の存在がなければ、私はきっと決断出来なかっただろう。
感謝の言葉では言いあわらわせられない程の恩を頂いた。
また山中鍼灸整骨院の同僚や、小学生時代の友人にも、離婚前に自分の想いを打ち明けた。
一般的に見れば、私のワガママで離婚する。
息子の為にも、我慢しては?と言われるだろうと思っていた。
けれど、話を聞いてくれた人はみんな、
「自分らしく生きたらいいやん!自分の人生なんやし。」
そう受け止めてくれた。
それまでの常識を覆すのはとても勇気が必要だった。
でも、周りの大切で大好きな人たちが、私のあるがままを受け止めてくれたから、私は私らしく生きて良いと言われた気持ちになれた。
私はなんて恵まれているんだろう。
心から感謝した。
そして改めて気が付いた。
誰からも好かれることを望んだり、
世間的な目を気にすることよりも、
今私がどうしたいのか。
私にとっては、それが一番大切なんだと。
それが私らしい選択なんだ。
離婚して、一区切りついたころから、仕事がますます楽しくなってきた。
これから母として妻としてやらねばならないという‘ねば’から解き放たれ、自分が好きな事を好きなだけ出来るという環境が私には合っているんだろう。
私は息子にやりたい事を我慢せずやって欲しいと願っている。
だから私が母親として出来るのは、その環境を整える手伝いくらいだ。
やりたい事をやりたい時に自由に出来る。
それほど自分の人生において、自分の人生を豊かにしてくれるものはない。
そして自由を手に入れる為に必要なお金は稼げば良い。
私はお金持ちになりたい。
ただのお金持ちではない。
自由を手に入れたお金持ちだ。
「明日アメリカ行ってくるわ。」
急にそう言って、実際行ってしまう。
そんなおばあちゃんになりたい。
死ぬまで働き、死ぬまで自由を謳歌する。
そんな自由な生き様を、私は私らしく貫きたい。
私は動物占いで自由を愛するペガサスだそうだ。
確かに。
束縛されると、逃げたくなる。
肩書きがあると、苦しくなる。
契約がると、もがいてしまう。
最近密かな楽しみが「叶姉妹名言集」を嗜むこと。
ある失恋した女性に対する叶姉妹の姉恭子様の返答。
「男性は毎日産まれているから、その方に執着する必要はないのですよ。」
男なんて星の数ほどいる。
という意味だが、この答え方の秀逸さに私は惚れた。
そう。
失恋したって、明日産まれてくる男の子がまたあなたと恋するかもしれないのだ。
なんて俯瞰的で自由な発想。
そしてその伝える言葉選びのセンスの高さ。
私もそんな柔軟な発想で、世界を見て行きたい。
こんな私が11年も働き続けられているのはヤマナカグループだからだと思う。
働き方も自由。
働く時間も自由。
でも放置ではない。
こんな職場は他にはない。
私が自由にどんどん羽ばたきたいと思えば、応援してくれるし、挑戦できる環境も人脈も与えてくれる。
そんな会社に恩返したい。
最近数字で結果が出るようになってきて、褒めて頂けることも増えてきた。
褒められる度にやはり思ってしまう。
「何をぬるいこと言ってはるんですか。私なんてまだまだですよ。」
そして私はまた、デキルカッコイイ人たちを手本とし、私が今できることを精一杯やっていく。
『自分に恥じない人生。
人様に恥じない自分でいるよりも、自分に恥じない自分でいることのほうがよっぽど大切なわけですから。』(叶恭子氏の言葉より)
私なりの自由な発想で。
大好きなデキル人たちに囲まれて。
「人生今がベストです。」
そう言い続けられる人生を私は歩み続ける。