ストーリー、新着情報
目次
最初に
1) 夢を追いかけた青き日々
2) 仕事と恋とおばあちゃん
3) 初めての子育てと山中鍼灸整骨院との出会い
4) 私に与えられた試練
5) ここはかけがえのない人が集まる私の居場所
最初に
私は本当に涙もろい。
人生で泣いた数を数えるときりが無い。
私は本当に‘はっちゃける’のが好きだ。
生まれも育ちも祭りが盛んな平野区の気質かもしれない。
私は人に恵まれている。
辛い時、苦しい時、悔しい時、いつも誰かが助けてくれる人生だ。
口に出すのは照れくさいので、ここで言わせて頂きたい。
心から感謝しています。
1) 夢を追いかけた青き日々
我が家は決して裕福な家庭ではなかった。
博打好きの大工の父は、生活費をほとんど家に入れなかった。
見かねた母方の実家の支援で、母は私が幼い頃から小さなブティックを経営し、朝から晩まで働いていた。
私と兄が学生生活を満喫し、好きな事を沢山出来たのは全て母のお陰だ。
母には感謝してもしきれない。
母方の祖母は、働く母を助けようと、よく私の面倒を見てくれた。
足が悪いのに、せがむ私の為におんぶしてくれた。
祖母の背中の温かさは今でも覚えている。
私が生まれ育ったのは、杭全神社のだんじり祭で有名な大阪平野区。
祭りの日には‘晒(さら)し、木股(きまた)にはっぴ姿’で、仲間と昼から夜中までだんじり一色。
そんな地元の祭りが大好きだった。
下町の人情味溢れる街で育った私は、理不尽なことが大嫌いな娘に育った。
たとえ先生でも間違っていることをしてきたら、「それは違う!」と自分の意見をしっかり言う方だった。
他の子が理不尽に怒られていても、それを見て見ぬふりは出来ないタイプで、「先生おかしい!」と言っていた。
そんな裏表のない性格、違うことは違うと言う大きな声、お喋りな性格で、学生時代は友人達に恵まれ、クラスでも目立つ存在だった。
高校は女子校へと進学した。
私は女の園でも自分らしく青春を謳歌していた。
そんなある日、行われた抜き打ちの持ち物検査。
私の鞄から、友人から預かっていたディスコパーティの参加券が見つかった。
当時、ディスコで若者達が集まってパーティを開くことが流行っていた。
学校の友人の中には、学校に内緒で参加している子達もいた。
しかし私は学校の校則違反になることもあり、一切参加していなかった。
「ちょっと預かってて。」
そんな軽いトーンで渡されたその紙が、まさかパーティの参加券だったとは。
見つかったとき、私の方が驚いた。
見つけた先生から、
「なんだこれは!」と問い詰められても、「知りません。私は友達から預かっただけ。」
そう潔白を主張したが、先生は全く聞く耳を持ってくれなかった。
辛かったのが、今まで仲良くしてくれていた先生が、
「こんな所に行っているなら、お前はタバコを吸ってるんじゃないのか?」
そう掌を返したように私を叱責し、問い詰めてきたことだった。
‘仲良くしていた先生が、私のことを信じてくれないなんて。’
私は話が通じない苛立ちと悔しさで過呼吸になった。
先生は焦り、母を学校に呼んだ。
私の様子を見かねた友人は、私の無罪を示す証拠を色んな人に声をかけて探してくれた。
結果、私の疑いは晴れ、教師は私に謝ってくれた。
その時、私の潔白を証明してくれた友人には本当に感謝しているし、今でもかけがえのない親友だ。
そして掌を返したように私を信じてくれなかった先生とはその後一切口をきかなかった。
そんな娘時代。
私には夢があった。
「歌手になりたい!」
家族の前でも、学校でも、いつでも私は皆の前で歌っていた。
小学生の頃、その様子を見た母が、勝手に申し込んだ松竹芸能の養成所。
私は合格し、養成所でお芝居や歌のいろはを叩き込まれた。
プロになるために目指したのは‘君こそスターだ!’という当時フジテレビで放送されていたオーディション番組。
林寛子さんや石川ひとみさんらを輩出した番組だ。
私は何度が挑戦し、予選は勝ち抜くけれど、どうしても東京での本戦までは勝ち残れなかった。
そして高校生になった時、これが最後だと挑んだが、結果は不合格。
東京での放送会まで残れなかった。
大好きだった歌の世界で生きていくことを諦めた。
今後について悩んでいたときに声をかけてくれたのが、高校の美術の先生だった。
「何か手に職をつけた方がいい。細かな作業も好きだから、美術系に行きなさい。」
確かに私は小物作りが大好きだった。
手先も器用で美術の時間も大好きだったのだ。
好きな小物作りを仕事に出来るなら!そう思い、美術系の大学への進学を目指すことにした。
しかし、美大系の受験には、デッサンが必須。
私は絵が苦手だったので、東大阪にある美術教室で入試対策の講義を受けることになった。
思い返せば、あの美術教室は、後に夫となる彼の実家の目と鼻の先。
もしかしたらすれ違っていたかも。
今になっては、そう考える。
苦手なデッサンにも取り組んだ結果、私は箕面にある美術系の女子短大に進学することが出来た。
細かな作業が好きな私は、銀を加工して指輪などの装飾品を作る学部に進んだ。
短大の2年間はあっという間に過ぎ、迎えた卒業制作展。
今までの学びの集大成を披露する作品展で、私は銀細工であつらえた‘ブレスレット’、‘髪飾り’、‘指輪’の3点を出展した。
バラをモチーフにした銀細工。
卒業制作展では、先生達が作品を評価して、優秀な作品には金銀銅の賞が授与される。
私の作品は高評価を得て、銀賞を頂いた。
「まさか私がそんな大きな賞を頂けるなんて・・・。」
驚きで声が震えた。
歌手を諦め進んだ美術の世界。
そこで私は認められたのだと実感出来、また今までの努力が評価された喜びで涙が溢れた。
卒業式。
私はステージに上がり、ライトを浴びながら、皆の前で表彰された。
頂いた賞状と盾は私の誇りになり、私は学び舎を巣立った。
2) 仕事と恋とおばあちゃん
卒業後、私は服飾系の卸問屋に就職が決まった。
大阪天満橋のOMMの一店舗のアパレル系企業だった。
学生時代に喫茶店やスーパーなど、様々な接客アルバイトをしていたので、接客業は慣れたものだった。
入社して1年目で、大阪市中央区にある店舗の店長を任された。
卸業なので、服飾系の経営者が買い付けに来られる。
センスのいいお客様に、トレンドなどをお伝えしながら、オススメの商品をご案内する仕事はとても楽しかった。
周囲の店舗も卸問屋ばかりだったので、他のブランドの商品を見るのも、その店員さんと話をするのも楽しかった。
当時。
私は初対面では‘生意気’そうに見えたらしい。
最初は怪訝そうに話をしてくれていたお客様や周囲の店舗の店員さんとも話をしていくうちに打ち解け、仲良くなった。
「あんたはよくしゃべるくせに、あかんたれやな。」
当時よく言われた。
最初は生意気な奴だろうか?と警戒しながら話をしていた人たちも、私が裏表がなく、素直で、明るくお節介な性格であることが可愛がられ、次第に仲良くなっていった。
特にお客様は年上が多く、食事に連れて行ってくれたり、プライベートでも可愛がってくれる方が多かった。
そんな20代。
祖母は元気だったが高齢の為、誰かが側にいる必要があったので、私と母が交代で祖母の側に居るようにしていた。
私は‘おばあちゃんっ子’で、小柄で可愛らしい話し方をする奈良出身の祖母が大好きだった。
祖母は毎朝茶粥を作るのが日課だった。
私は祖母の作ってくれた茶粥を食べてから出勤するのが日課だった。
普段は、母が作る料理を祖母と一緒に食べたが、たまの休みに作る私の手料理を振る舞うと、祖母はいつも「美味しい」と褒めてくれた。
そんな大好きな祖母に花嫁姿を見せてあげたい。
そう思っていた頃。
私には同じ職場に勤める男友達がいた。
何でも話せて、困った時はすぐに駆けつけてくれる優しい友人。
いつの間にか、友人ではなく恋人になり、そして結婚することになった。
27歳の時だった。
結婚を機に、私は祖母と離れ、東大阪にある主人の実家の近くに引っ越しをした。
東大阪に引っ越した頃。
当時は今と違って、何もない街だった。
古いお宅も多く、昔からあるコミュニティの中に入る感覚だった。
しかし地域の人たちは優しく温かい方々がとても多かった。
自治会の集まりで顔を合わせる度に話が弾み、打ち解けていった。
地域ではお酒好きの人たちが多く、「今日は○○さんの家に食べ物を持ち寄り宴会しよう。」と宴会が開催されるのが恒例行事だった。
転居してから数年後には、私自ら発起人の一人として地域のバーベキュー大会を発案し、地域の人たちを集めた大バーベキュー会も開催した。
お酒を飲み、賑やかに楽しく過す大人に囲まれて育った私には、とても居心地のいい街だった。
そして結婚して数年で長男に恵まれた。
妊娠を機に私は退職をして子育てに専念することになる。
里帰りは祖母の住む家に帰った。
90歳を超えても、まだまだ元気な祖母は息子を溺愛してくれた。
息子も‘ちっちゃいばぁちゃん’ととても懐いた。
そんな祖母は106歳で他界した。
大往生だった。
弱っていく身体で、食が細くなっても、私が作る料理は食べてくれた。
臨終が近づく頃、いよいよ食事量が少なくなってきていたが、私が作ったクリームシチューを美味しいと言って食べてくれた。
私はそれが嬉しくて、また作って持って行くと、
「同じのばっかりはかなんわー。」と笑い合った。
最後まで家族に迷惑をかけない立派な人生だった。
火葬場で誰よりも大きな声で泣きじゃくったのは息子だった。
家族皆から愛され、最期まで笑顔で可愛らしいおばあちゃんだった祖母。
私は祖母から人の悪口を聞いたことが無い。
沢山の苦労をした苦労人だし、辛酸を嘗めるような経験も沢山してきたはずなのに、
一切誰かを悪く言うことはなかった。
小柄な身体で、辛いこともすべて飲み込んで。
誰を恨むこともなく、誰を妬むこともなく。
まるで仏のように微笑む祖母。
私は祖母を心から尊敬している。
私も‘ちっちゃいばあちゃん’のような年の重ね方をしたい。
おばあちゃんは大切な人であり、お手本となるような人だ。
3) 初めての子育てと山中鍼灸整骨院との出会い
息子が幼稚園に入るまで、私は息子を側で育てたかった。
三つ子の魂100まで。
子どもは母親の側で甘えて育てるのが一番。
そんな時代でもあった。
ただ、主人だけの収入では心細く、息子が幼稚園に入るまで私は内職をしていた。
息子を見ながらの内職。
家で出来る仕事だが、家で出来る仕事だからこそ、どうしても息子に我慢させることが多かった。
息子から‘遊んで’とせがまれても、仕事が気になり遊んであげられない。
「ちょっと待って。」
「これ終わってからね。」
そんな言葉をかけることが多かった。
結果、息子は一人遊びが上手にならざるを得なくなった。
母親は側に居た方が良い。
私もそう思う。
でも、側に居ても、向き合えない、我慢させてしまう状況の中での子育ては、互いに辛い。息子には寂しい想いをさせてしまったな、悪かったなと今でも思っている。
そんな寂しい想いをさせても、息子はまっすぐスレず素直に育ってくれた。
息子が小学生の時。
家族ぐるみで仲良くしている近所の友人に誘われて始めたソフトボール。
最初はグローブを持ちながら走るのが辛いと、練習を放棄して、私たちが迎えに行くとグランドの隅で寝ていた息子。
でも、メンバーやコーチに恵まれて、どんどん好きになり、上達し、6年生ではキャプテンに選ばれた。
私たち夫婦も息子を応援する中で熱が入り、主人はコーチとして一緒にグラウンドでソフトボールを楽しんでいた。
私も主人も忙しく働いていたから、息子にじっくり向き合ってあげられるような時間を取る余裕がなかった。
そんな私たち家族にとって、土日のハンドボールの練習や試合は、私たち家族の絆を深めてくれるキッカケになった。
少し時間を戻す。
息子が幼稚園に入ると、内職を辞め、運送会社でパートとして働きだした。
そこは同じような年頃の子どもを持つママが多く、すぐに仕事にも馴染み、とても楽しく過ごしていた。
しかし、配送の仕事よりも、もっと子どもと時間を取りやすい職場はないかと考えていた。
そんな時、家の近所に大きなビルが建築中になった。
荷物を運びながら、何度も横を通った。
‘もしここが病院なら、土日は休みだし、働きやすいな。それに息子が行く小学校の横だし、立地もいい。求人しないだろうか。’
そんなことを思っていた。
するとある日新聞の折り込みに求人が出ていた。
「新規オープンに伴い、受付スタッフ募集。35歳まで。」
私はすぐに電話をかけた。
35歳。
ギリギリの年だった。
面接は弁慶のような大きな身体で眼光鋭い阪口先生が対応してくれた。
「地域の方なんですね。」
「そうです。」
そんな会話をした。
正直私は面接で落とされると考えていた。
年齢的に若い子が採用されるだろうなと思ったからだ。
それなのに、すぐに採用の電話を頂いた。
立地の良い場所で働ける!と喜んだ。
意気揚々とパートとして働き出して、すぐに大きな試練がやってくる。
阪口先生からの叱責の日々だ。
「「お大事に!」と患者様を見送る時の声のトーンが違う!」とまで怒られた。
‘そんなことまで!?’
何も分からないなかで、色んなことでダメだしされ続ける日々だった。
しかし、阪口先生は施術の腕も、院内の患者様の誘導も、スタッフへの指摘も、全て的を得ていた。
ぐうの音も出ないダメだしの連続。
患者様の前でもお構いなしにズバズバ言ってくる。
年下から、ここまでズバズバ叱責されるのは初めての経験だった。
悔しいやら、情けないやら、腹が立つやら、感情がジェットコースターのようだった。
毎日泣いて主人に弱音を吐く日々。
「そんなに辛いなら辞めたらいいやん。」
何度も言われたが、辞める気持ちにはなれなかった。
‘なにくそ!’という負けん気があったと思う。
阪口先生は厳しいダメだしをするけれど、根はとても優しいということを一緒に働く中で気が付いていた。
山中院長から直接叱責されることは無かったが、たまにダメだしをされることがあった。
阪口先生が私を厳しく責めていると、‘まぁまぁ’と山中先生が間に入ってくれたり、
飲み会では私はヒートアップして阪口先生に噛みつくのも恒例になっていた。
一度、「辞めよう、もう無理だ」と思い、山中院長に相談したことがある。
「もう少し頑張ってみて。」
そう引き留めてくれた。
その言葉に、もう少し頑張ってみようと思えた。
そして山中鍼灸整骨院のトップである山中先生と阪口先生も、互いによく言い合いをしていた。端から聞いたらケンカのような言い合いだけれども、‘どうしたらもっと良い院になるか’を互いに真剣に考えていることが伝わってきた。
私に対する叱責も、私に期待してくれているからで。
私に対する叱責も、院をよりよくしたいという本気の表れで。
その事を感じていたから、この2人の下で働きたいと思えたのだと思う。
きっと私は‘大人が本気になってがむしゃらに真剣に取り組む’姿を応援するのが好きなのだろうと思う。
山中鍼灸整骨院には今まで沢山の先生達が来て、そして去って行った。
その中で、長く勤める先生は、この‘がむしゃらさと真剣さ’がある先生たちが多いように思う。
どうすれば患者様を健康に出来るか。
どうすれば患者様がもっと心穏やかになれるか。
どうすればもっと良い院になるか。
真剣に取り組み考える人ほど、この院に長く、深く、関わってくれる。
そして私はそんな先生たちを応援するのが好きなのだと思う。
この仕事は独立する先生も多いので、ご自身の院を持ちたいと卒業していった先生も多い。
まるで息子や娘が自立して家を出るかのように。
私はその都度泣いてしまう。
それだけ深い人間関係を築けるのも、皆が真剣に日々働いているからだ。
そんな‘相手を真剣に思いやる’気持ちを持った先生たちがいる山中鍼灸整骨院。
私は自信を持って良い院だと勧めている。
山中先生の施術を受けた患者さんは、いつも‘いい顔’で帰って行かれる。
そんな患者様を沢山目の当たりにしてきた。
大袈裟ではなく、山中先生は神の手と言葉の力と気付く力を持つ施術家だと思う。
神の手のような技術力と、患者様の心が軽くなる言葉の力。
それを兼ね備えているから、山中先生は人を惹きつけるのだと思う。
そして目がいくつあるんだろうと思うほど、周囲に気が配れる。
マニュアル通りではなく、その人お一人お一人に必要な施術をしている。
端から見ていても、相手が望んでいることを一生懸命聞き取り、くみ取り、施術をされていることが分かる。
だからこそ患者様はこれほどまでに満足するんだろう。
その後、沢山の良い先生たちが山中鍼灸整骨院に入ってくれた。
沢山の患者様たちが、‘いい顔’で帰って行かれる。
私は辛そうな表情や暗い表情の人を見ると、自分のことのように辛く感じるので、そんな顔で来院した患者様が、明るい表情で帰られると、心から嬉しい。
私は施術家ではないので、そんな素晴らしいことを仕事にしている先生達のサポートが出来ることが誇りだ。
4) 私に与えられた試練
私には、息子の下に10歳離れた娘がいる。
息子は結婚後すぐに授かったが、その後なかなか子宝に恵まれなかった。
卵管が狭窄していて自然妊娠は難しい。そう告げられていた。
母は、私が女の子を授かるように、毎日仏さんやお地蔵さんにお参りしてくれていた。
「娘に女の子を授けてください。」
そうお願いしてくれていた。
息子の子育てと、山中鍼灸整骨院での仕事に追われながらも、どうしても娘が欲しかった私は、不妊治療に通っていた。
30代後半。
病院の先生から、「高齢だし、体外受精も検討してください。」
そう告げられた。
体外受精に踏み込むには、相当な金額が必要になる。
そんな時、博打好きな父が「オレが出してやる。」そう援助を約束してくれた。
体外受精にとりかかる寸前。
私は自然妊娠で待望の娘を授かる事が出来た。
まさか本当に娘を授かることが出来るなんて。
妊娠を知り、お腹に宿った新しい命に、泣きながら感謝した。
不妊治療をしている事を知っていた山中先生も、我が事のように喜んでくれた。
そして迎えた出産。
二人目だし、早く生まれるかも。
そんなジンクスはどこへやら。
娘は予定日の2週間を過ぎても出てこなかった。
「そろそろ出産しないと、羊水も悪くなってきて赤ちゃんにとって良くないから。」
そう言われ、陣痛促進剤を打ち、計画出産するため入院することになった。
入院して次の日の朝。
いつものように赤ちゃんの心拍を確認したところ、病室内がざわついた。
そこからテレビで見る医療ドラマさながらの緊迫した空気の中、慌てた様子で先生や看護師さんが入ってきて食い入るようにエコーや心拍を見ている。
「お母さん。赤ちゃんの心拍が弱いから、緊急帝王切開にします。」
告げられたのは、‘娘が危ないかもしれない’という言葉。
「帝王切開にはご家族の同意書が必要ですから、すぐにご主人に連絡してください。」
促された携帯を持つ私の手は震えて、番号を押せなかった。
看護師さんに付き添われ、なんとか主人に電話が繋がったが、その日に限って仕事の事情ですぐには産院には来られないと言われる。
私はすぐに息子の面倒を見るために家に来ていた母に電話をかけた。
そして近所に住む友人にもSOSを出し、母を連れて病院まで駆けつけてもらった。
この近所に住む友人は家族ぐるみの付き合いで、普段から産院への通院にも付き添ってくれていた恩人だ。
慌てて行われた帝王切開。
「やっと授かった命をどうかどうか奪わないで。」
私は泣きながら祈るしかなかった。
生きた心地がしなかった。
手術は無事成功し、娘が誕生した。
生まれて分かったのだが、娘には臍の緒が首に二重に巻き付いていたそうだ。
かわいそうに、苦しくてなかなか降りて来られなかったのだろう。
でも、無事に産まれてきてくれた。
小さな手を握りながら、生まれてくるときに、こんなに辛い想いをして頑張って生き延びたのだから、この子の人生は苦しい事なんて1つもない幸せいっぱいの人生になるようにと心から願った。
娘を抱きしめ、その温か温もりに安堵の気持ちが溢れた。
産後、山中鍼灸整骨院に復帰すると、皆温かく迎えてくれた。
年々山中鍼灸整骨院は、子育てしながら働くことに、とても理解のある社風になっていった。
待望の娘を授かり、山中先生のご厚意もあって私は山中鍼灸整骨院の社員として雇用してもらえることになった。
子どもを育てながらの仕事。
子どもを連れて来ていいよ。そんなお声も頂いたが、私は娘を保育園に預けた。
子どもを側に置きながらの仕事の辛さを息子の時に実感していたからだ。
しかし、いくら保育園に預けていても、子どもを育てながらの仕事は、周囲に迷惑をかけてしまう。
山中鍼灸整骨院のスタッフは、息子も娘もよく面倒を見てくれた。
特に娘は幼い頃から山中鍼灸整骨院に出入りしていたので、若い先生たちによく懐き、兄や姉のように慕っている。
藤原先生含め、若いスタッフは、保育園に娘を迎えに行ってくれたり、時に授業参観にも参加してくれた。
山本先生は、休みに遊園地などに連れていってくれた。
本当の兄や姉のように娘はスタッフを慕っている。
彼らがいるから、私は仕事が出来た。
感謝してもしきれない。
娘を授かり、幸せを噛みしめていた頃、週に2、3回は車で母と二人で平野から東大阪に来てくれていた父に認知症状が出始める。
軽度の物忘れから始まり、その後、暴力や暴言など、他傷行動が出始めた。
包丁を持って暴れ出した頃には、母から限界だとSOSが私たち兄妹に告げられた。
私たちは断腸の思いで、父を病院に入院させることにした。
入院の日。
付き添いは私だけだった。
病室はまるで牢屋のようだった。
「頼む!連れて帰ってくれ!」何度もそう叫ぶ父。
私は泣きながら、「ごめんね、ごめんね。」と謝ることしか出来なかった。
いつ誰かを傷つけるか分からない状態で家庭での介護は困難だった。
これしかない。
そう思っていても、あんな牢屋のような場所に父を置いて帰らなければならない。
振り切るように私は父を置いて家路に就いた。
帰り道。私は涙で前がよく見えないほど泣いた。
これほど辛い涙を流すのは人生で初めてだったかもしれない。
「頼む!連れて帰ってくれ!」
頭の中で何度も何度も父の叫び声が繰り返され、私は心の中で「ごめんね、ごめんね」と言い続けるしかできなかった。
まるで親を捨てるようだ。
私はあのときの父の叫び声を一生忘れられないだろう。
認知症は、とても辛い。
本人も、家族も辛い。
薬の効果か、父はすっかり大人しくなった。
私はその変わりようが恐ろしかった。
退院して、施設への入所が決まった。
キレイな施設で出来るだけ快適に過ごして欲しい。
そう望んだ。
しかし父は、どんなキレイな施設よりも、最期まで家に帰りたがった。
施設に行くたびに「いつ帰れる?」そう聞かれるのがとても苦しかった。
施設に入ってから、父はケガや病気などで入退院を繰り返し、最後は病院で寝たきり状態に。
父には辛い日々が続くなか、病院から「危ないです。」そう連絡が来て家族で病室に駆けつけた。
それまで私も兄も、父に「頑張りや」と声をかけることが多かった。
しかし、臨終の際の父の姿を見て、兄が一言。
「もう頑張らんでいいよ。」
そう言った。
家族皆同じ気持ちだった。
翌日、娘は中学3年生の最後の運動会。
父の危篤の知らせが早朝に届いた。
先に駆けつけた兄から
「もうお父ちゃん亡くなってるわ。こちらで葬式などの準備はやっとくし、最後の運動会、出させてあげて。」
そう言われた。
私は運動会が終わってから、父に会いに行った。
そして見送った。
残念ながら、家族の誰も父の死に目には間に合わなかった。
父の介護は、これで良かったのだろうかと、思い出す度に心が苦しくなる。
頭ではやれるだけのことはやった。
仕方が無い。
そう思っていても気持ちの部分では吹っ切れない。
人生には色んなことが起こる。
就職、結婚、転職、妊娠、不妊、介護、パートナーの体調不良、自身の病気。
良いことも、悪いことも、幸せなことも、苦しいことも背負いながら生きていく。
山中鍼灸整骨院の開院と同時に働き出した私。
気が付けば20年以上働かせて頂いている事になる。
その間、娘の誕生、父の死、息子の結婚、孫の誕生など、私の人生にも色んな出来事が起こった。
息子は幼い頃、私の側を離れない子だった。
少しでも私が居ないと不安になるような、そんな甘えん坊な息子。
小学校で始めたソフトボール。中学校で野球に変わり、枚岡ボーイズに入った。それから高校大学と野球を続け、成人した今でも毎週のように仲間と野球を楽しんでいる。
大学卒業早々に結婚を決めた息子。
20代前半の早い結婚に、不安が無かったと言えば嘘になるが、素敵な伴侶に恵まれ、仕事に精を出す息子を見ていると、本当に立派に育ってくれたなと誇らしく思う。
そして目に入れても痛くない孫も出来た。
年の離れた娘は、兄が大好きだ。
やっと野球漬けの日々が終わり、一緒に遊んでもらえると思ったら、結婚し、姪も生まれた。
娘にしてみたら、大好きなお兄ちゃんを取られたという寂しさもあったろう。
そんな彼女も高校生。
実の兄や姉のように遊んでもらっていたスタッフと一緒に山中鍼灸整骨院でアルバイトをしている。
今では私の帰りが遅いと夕食の準備をしてくれたり、お弁当を差し入れしてくれることもある。
息子の時にはなかった女の子ならではの親孝行の仕方。
‘娘が無事産まれてきてくれて本当に良かった。’
高校生になり大きくなった娘を見て、最近つくづくそう思う。
娘は美術系の私の血をひいたのか、彼女もまた美術系の進路を選ぼうとしている。
好きなことを好きなだけ学ばしてあげたい。
子どもたちを満足出来る進路に尽かせてあげれた。
今まで必死に働いてきたことが報われる瞬間だ。
しかし私は決していい母親ではなかった。
幼い頃、仕事仕事で二人には寂しい想いをさせたことも多い。
私が彼らを育てたのではなく、彼らが自らの力で育ってくれたと思っている。
本当は二人が大好きで何物にも変えがたい宝物なのに。
素直になれなくて、ぞんざいに扱い、傷つけたこともあっただろう。
それでも、素直でまっすぐで心優しい人に育ってくれた。
今まできっと親に言えない苦労や悔しさや、色んなことがあっただろうけれど、努力して自分の人生をしっかり地に足をつけて歩いてくれている。
私はただただ彼らが幸せであってくれるように祈るしかできない。
息子と娘が幸せなら、私も幸せだ。
生まれてきてくれて、私を母親にしてくれてありがとう。
5) ここはかけがえのない人が集まる私の居場所
私にとって、患者様はただのお客様ではない。
私は施術で患者様を癒やせないが、受付として、できる限りの力になりたいと常に思っている。
出会えたご縁に感謝して、相手が元気になるには何が出来るかをいつも精一杯考えている。
「ここに来たら、あんたの明るい声で元気がもらえるわ。」
「この前来た時、あんたがおらんかったから寂しかったわ。」
そんな嬉しい言葉を下さる方も多い。
まるで家族のようなお付き合いにまでなる患者様たちも居る。
実の父は他界したが、私には東大阪のお父さんとお母さんと呼べるような方もいる。
山中鍼灸整骨院での出会いから、家族ぐるみのお付き合いにまでなった方もいる。
ここに来られる患者様は、本当に優しい方が多い。
私だけでなく、スタッフ皆に優しい人達。
おかずを差し入れしてくれる方まで居る。
だからこそ、せっかく頼って来て下さったのだから、出来るだけのことをしたいといつも一生懸命に頑張ってしまう。
人情味溢れる、本当に優しく温かい人が多い。
やっぱり私はこの東大阪が好きだ。
そんな患者様たち。
身体の辛さだけでなく、お一人お一人沢山の事情があって、色んなことを背負っているだろう。
けれど、山中鍼灸整骨院に来られている間だけでも、その重荷を下ろしてほしい。
身体も心も元気になって帰って行く後ろ姿に、「お大事に!」と声をかけ続けたい。
そういつも考えている。
私は施術家ではないので直接身体に触れないが、お話を聞くことは出来る。
せめて誰にも言えないような愚痴や弱音や心の内を、話やすい存在になれるようにしている。
私自身、とても辛くて苦しい時、山中鍼灸整骨院のスタッフの存在に何度も救われた。
さりげない気配りや、何気ない会話。
それらが救いになることがあると私はここで教わった。
何気ない気配りや、何気ない会話で救われる。
それを一番教えてくれたのは山中先生のお父様とお母様だ。
お父様は軽くお尻を叩いて「今日も元気か?」と必ず挨拶をしてくださった。
会うだけで、笑顔になれる。
大きな体格を上回る優しいオーラに満ちたお人柄に、何度も元気をもらえた。
お母様も「いつも頑張ってくれてるわね。ありがとう。」と穏やかに微笑みながら声をかけてくれる。
心が洗われるような微笑みをいつもくださる。
奥様もいつも寄り添って、力をくれる。
まるで心の声が通じているのかと驚くほど、私が落ち込んでいると、さりげなく声をかけてくれる。泣き虫な私をよく理解してくれている。そんな人だ。
生まれた時から知っている娘さんは、可愛い女の子。
私の娘とも同じ年頃で、娘さんもまるで家族のように私のことを優しく気遣ってくれる。
時々山中先生の面白い写真を送ってくれて、私を笑わせてくれている。
私の笑いのツボをよく理解してくれている。
山中先生のご家族は皆、私含め、一緒に働く山中鍼灸整骨院のスタッフを大切に思って、接してくださっている。
愛溢れるファミリーだなぁと、尊敬する。
山中鍼灸整骨院の開業から務める私にとって、ここで一緒に働く人たちは家族のような存在だ。
長年苦労をともにした同志のようなスタッフ達。
息子や娘のように信頼出来るスタッフ達。
皆頑張り屋さんで、一生懸命な人ばかり。
優しさに助けられている日々だ。
頑張り屋さんたちの中で、私も必死に頑張ろうとしている。
でも、この年になると身体と頭をフル回転しても、今まで出来たことが出来ない悔しさや、家庭の事情で集中出来ないこともある。
そんな私をスタッフの皆は優しさと、理解で支えてくれている。
共に働く時間の多い伊藤さんや吉岡さんは特にだ。
揚げ足を取られるときも多々あるけれど・・・(笑)
互いにフォローし合う、
励ましあう、
言葉に出てなくても表情で読み取ってくれる。
2人はエスパーかも・・・(笑)
全員子持ちの母として、わかり合える。
3人でよく泣いたり、笑ったりする。
人生の多くの時間を過ごす職場において、この2人と一緒に働いている時間は家族より長い。
いつまで三人娘で働けるのであろう。
この年になると、この先を考えてしまう。
いつか終わるかもしれないが、だからこそ今に感謝して過ごしている。
最近は、欲よりも感謝ばかりの日々だ。
私の人生は、山中鍼灸整骨院と共にあったようなものだ。
きっとこれからも、そんな人生が続いていくといいなと思っている。
地域の人たちの心の拠り所になるような場所であり続けるように。
そして私自身が杖をつくようなおばあちゃんになったら、今度は私が遊びに来れるように。
大人達ががむしゃらに、真剣に。
この土地の人たちの身体も心も‘ほっと’軽くなり、少しでも温かく満たされる時間を過ごしてもらえるように。
私だからこそ出来る患者様や山中鍼灸整骨院への貢献の仕方で、これからも、私はこの大好きな場所で人生を過ごしていきたい。
この場所に、ここに集う人たちに、私が必要とされるまで