ストーリー、新着情報
1)外弁慶な女の子
2)忘れられない三ツ矢サイダーのような青い時
3)好きを仕事にしたい
4)がむしゃらに働く20代前半
5)母になって気が付いた
6)私が’しっかり働ける姿’
7)これからも大好きな人で溢れるこの街、この場所で
1)外弁慶な女の子
私は人見知りで場所見知りだ。
初めて会う人とは、なかなか話が続かない。
知らない場所には、なるべく行きたくない。
だからかもしれない。
私は生まれてからずっと、東大阪から出たことがない。
学生時代も。
就職してからも。
結婚してからも。
私はずっと大好きなこの街から離れられない。
そして大好きな家族とも離れられず、今でも実家に大所帯(両親、姉、私たち家族、弟家族)で住んでいる。
私は4人兄弟の次女として産まれた。
上に兄、姉、そして弟が居る。
アクティブかつチャレンジャーでカッコイイお父さん。
いつも家族を見守る少し心配性なお母さん。
そんな両親の元で育った。
「幼稚園にいる時は、家に居る時と別人。」
母からよくそう言われていた。
家の中では、両親に怒られる兄や姉を反面教師にして、大人しい良い子ちゃん。
家の外では、溜まったエネルギーを発散するかのように、おてんばな女の子。
幼少期、私はいわゆる‘外弁慶’タイプだった。
そんな私が3歳の時。
姉はクラシックバレエを習っていた。
母は姉のバレエの練習に、幼い私も連れて行ってくれていた。
成長期の姉は、それまで使っていたシューズやレオタードがサイズアウトして、新しいものを一式揃えたところだった。
その日。
私は誰に言われるでも無く、姉のお古のバレエ練習セット一式を自分の鞄に入れて練習に同行した。
そしてさも当然のように会場に着くと、姉のお古に着替え、
‘さぁ、始めましょう’という顔をして立っていたそうだ。
そんな事をすると思ってもいなかった母と先生はとても驚いたそうだ。
いつも付き添いで来ていた3歳の妹さんが、突然やる気満々でバッチリ準備して目の前に立っている様子を見た先生。
さぞかしそのやる気を褒めてくれたのだろう。
先生に褒められることも嬉しかったが、先生に褒められている私の姿を母に見てもらえるのが一番嬉しかった。
私は意気揚々とバレエを始めた。
3歳から中学2年生まで。私はバレエを続けた。
最初から最後まで。バレエを続ける原動力はこの‘母に褒めてもらう姿を見てもらえるのが嬉しいから’だった。
ただ、小学校の高学年から、バレエの世界の暗い部分に辟易していた。
女性社会独特の陰湿さ、妬み、マウント。
発表会の時には、楽屋に置いていた貸衣装を盗まれた時もあった。
そんな世界が嫌いだったが、‘そんな世界が嫌だから’を理由にバレエ辞めるのは負ける気がして、もっと嫌だった。
私はいったん始めると、自分でも納得出来る理由が見つからない間は嫌でも辞めない性格らしい。
結局中学2年生になり、いよいよ進学に向けて勉強しなければならない。
それを理由に、私はバレエを辞めた。
やりきったという気持ちもあった。
‘ここで辞めても両親はガッカリしないだろう。’
そう思えたので決断をした。
2)忘れられない三ツ矢サイダーのような青い時
そして中学3年生。
私は中学のラグビー部のマネージャーになった。
「中学校の部活でマネージャーなんて、今まで聞いた事がない。」
それがラグビー部顧問の最初の言葉だった。
「私だって、本当はプレーヤーとしてラグビーしてみたいけど、女子は入部ダメじゃ無いですか。だからマネージャーならいいかなって。先生お願い!」
「まぁ、親御さんがOKなら顧問としてもOKだ。
マネージャーが居てくれると助かることも多いしな!」
「やった!!!」
こうして私は最初で最後の中学ラグビー部マネージャーとして1年間部活を満喫した。
バレエを辞めてから、私はエネルギーの発散方法を探っていた。もとより外でジッとしている性格ではなかった。
部活に入ろう!
そう思った時に、ラグビーをやりたい!そう思った。
ラグビーに惹かれたのは父の影響が大きい。
父は休日になると、ラグビーの街東大阪で少年達にラグビー指導をしていた。
2つ下の弟もそのチームに入ってラグビーをずっとしていた。
カッコイイお父さんの好きなラグビー。私もやりたい。
そう思ったのだ。
しかし当時は女子がラグビー部に入ることは出来なかった。
そこで顧問の先生に直談判し、マネージャーになった。
この顧問の先生がとても熱く優しく生徒想いの先生だった。
私のマネージャーも受け入れてくれたし、生徒の‘やりたい’を否定せずに受け止めてなんとか叶えようと動いてくれる先生だった。
そんな先生が顧問を務めるラグビー部。それはそれは楽しかった。
華やかな舞台と相反する舞台裏での陰湿ないじめ。
チームとしてまとまるよりも、より抜きに出ることを競う社会。
そんなバレエの世界に居た私にとって、ラグビー部は別世界だった。
まるで三ツ矢サイダーの青春だ。
裏表のない純粋で透明な人間関係。
シュワッと爽快なチームプレー。
火照りや汗さえも心地よいと思わせてくれる、ひたむきにスポーツに全力で取り組む日々。
純粋で甘く爽快な、青い春。
一緒にプレーは出来ない。
一緒に試合には出られない。
けれど、いつも気持ちは一緒だった。
メンバーもまた、私をチームの一員として受け入れてくれていた。
あの一年は私の人生の宝物になった。
高校に進学し、私はまたマネージャーを希望した。
私の進学した高校にはラグビー部はなかった。
そこでサッカー部のマネージャーになった。
高校サッカー部のマネージャーは、私の知るあの気持ちが良い居場所ではなかった。
思い返せば、中学生の時は、あの顧問の先生率いるメンバーの一体感が私は好きだった。
高校では、顧問の先生はそこまで熱心ではなく、生徒主導で部活が行われていた。
なんだかサバサバした空間が居心地悪く、2ヶ月で辞めた。
‘このままだと、マネージャー自体が嫌いになりそう’
中学3年生の宝物の記憶を汚したくなかった。
「アルバイトでもしようかな。」
そう言う私に母が一言釘を刺す。
「飲食業は危ないからダメです。バイトをしても19時が門限です。」
校則よりも厳しい母の教え。
多感な高校生。それなりに反発心も芽生えていた。
しかし、母に心配をかけてまで反抗するほどの気持ちは無く、相変わらずの外弁慶で、母の教えには逆らわなかった。
私は仕方なく知り合いの紹介で工場での軽作業のバイトを始めた。
このバイトも‘理由がないと辞められない’の法則に則り、卒業間近まで続けていた。
勉強はほどほどに。
友達とおおいに遊び。
バイトでの社会人経験も少しだけ。
なんだかんだ、楽しく高校時代を過した。
あっという間に3年生になった。
将来の夢・希望?
まだまだ未定でふわふわしていた。
そんな時に学校で開催された就職説明会。
大学や専門学校の人が高校に来て、説明会を開いてくれたのだ。
その時に初めてトレーナーという仕事を知った。
3)好きを仕事にしたい
‘選手やチームが最高のパフォーマンスを発揮出来るようサポートする仕事’
マネージャーみたいな仕事だな。
聞くだけでワクワクしてきた。
「テーピングを巻いたり・・・」
トレーナー養成専門学校の担当者がテーピングと言ったときに私のアンテナがピンっと立った。
テーピング巻けるようになりたい。
丁度その頃、ラグビー指導をしている父もテーピングの巻き方を学びに行っていた。
私がテーピング巻くような仕事をしたら、お父さん喜びそう!
大好きなマネージャーを仕事に出来る。
大好きな父が喜ぶ仕事。
これしかない。そう思った。
「トレーナーの専門学校にも色々あるが、当校は在学中にダイビング、スキー、キャンプなどを通して、それらの指導資格も取れます。」
なんだそれ。
楽しすぎるじゃないか。
小さい頃から、家族で色んなアウトドアに出かけていた私にとって、それらは魅力でしかなく、その専門学校への入学を決めるダメ押しの決定打になった。
そして私はトレーナー養成専門学校に入った。
専門学校にはいくつかの科に分かれていた。
本気で選手のトレーニングに携わる人はアスレチックトレーナー養成科に進んだ。
私のように、ふわっと入った子達は、メディカルトレーナー養成科に進んだ。
メディカルトレーナーと言っても、卒業時に取れる資格は介護ヘルパー3級。
主な就職先はマッサージ店や鍼灸整骨院だった。
でも、私にとってこのふわっとした場所は居心地が良かった。
プレーッシャーもなく、のびのび学べる環境だった。
在学中、有名な選手の専属トレーナーが居る大学のラグビーチームに研修させて頂いた事があった。
バリバリのトレーナーを前に、人見知りの私は猛烈に緊張していた。
研修と言っても、やることはお手伝い。
タイムを計測したり、練習道具のセッティングや片付けをしたり、選手達の飲み物の準備などが主だった。
‘あっ、マネージャーみたい’
中学3年生の時の楽しい気持ちが蘇ってきた。
知らない場所、知らない人が苦手な私だが、‘マネージャーみたいな仕事が出来る’と思うと、嬉しくて必須の研修ではなくてもお声がかかると練習のお手伝いに行くようになった。
バリバリ働くトレーナーの先生も、年の違い大学生の選手達も、とても優しく仲良くしてくれた。
トレーナーは、どちらかと言えば、コーチに近いと思った。
選手達のパフォーマンスを高めるトレーニングを考えたり、ケガの応急処置、ケガの早期回復の為のリハビリメニュー作りなどをしていた。
一方私は、選手やトレーナーが動きやすい環境になるように動いていた。
‘やっぱり私はトレーナーというより、マネージャー向きだな’
選手達が思い切りプレーをしている姿を見ながら、改めて思った。
‘私は裏方が好きだ。’
2年間の専門学校生活は、まさに光陰矢のごとしだった。
あっという間に2年生の夏。
周りはどんどん就職先を決めていった。
‘ヤバい’
さすがに焦った私は、学校の求人をペラペラめくっていた。
これがしたい!という明確なものがないままに、求人票をめくる。
‘とりあえず、近所がいいな’
知らない場所が苦手な私は家の近所で求人を探すと、あるではないか!
ものすごく近所に求人を出している鍼灸整骨院を発見した。
「先生、私ここに面接受けに行く。家がめちゃくちゃ近いもん。」
その鍼灸整骨院こそ、私が今年で19年お世話になっている山中鍼灸整骨院だった。
4)がむしゃらに働く20代前半
3階建ての立派な鍼灸整骨院は、本当に家の近所だった。
大きな弁慶みたいな先生が院内見学と面接をしてくれた。
何を話したか忘れたが、とにかく‘テーピングを巻きたい’という話をしたように思う。
なにが気に入って頂いて内定をもらったのかは、いまだに謎だ。
「合格したら、改めて連絡します。卒業されるまでは、アルバイトで入ってもらって、慣れていって下さい。」
そう言って面接は終わった。
暑い暑い8月だった。
‘採用です’という連絡はすぐに頂いた。
ただ、私の頭の中は、9月末に行く予定のダイビングの事でいっぱいだった。
「いつから勤務されますか?」
そう問われ、
「9月末にダイビングの予定が入っているので・・・10月からお願いします。」
「分かりました。それでは10月からお願いします。」
内定を頂いた会社へ、‘ダイビングがあるから・・・’なんて言ってしまう。
20歳。若気の至りだ。
なぜ採用されたか。やはり謎だ。
ダイビングも満喫し、山中鍼灸整骨院でのアルバイト生活が始まった。
始まってみて気が付いた。
私は人見知り。
私は接客業未経験。
私はすぐ手汗をかくからテーピング巻くのが苦手。
この仕事、向いていない。
しかし、向いていないからと言って、そう簡単に辞められない。
やり始めたからには、なにか爪痕を残さねば。
最初に与えられた仕事は物療補助の仕事だった。
当時待合テーブルや受付前に数十人の患者様が待っていた。
その人たちを順次、各物療にご案内する。
当時、物療の数もすごく多かった。
これらの物療に的確に患者様を誘導する仕事を‘物療回し’と呼んでいた。
患者さんの名前も分からない。どんな物療をどんな風にするかも分からない。
そんな私が見た物療回しの世界は、まるで朝の漁港のセリのようだった。
どんどん運ばれてくる魚を、大きなかけ声で売りさばいていく。
素人が見ても、まず‘何を言っているか分からない’。
‘何が起っているかも分からない’。
ただただ物療回しのエキスパート本田先生が、マイクで次々と患者様をご案内し、あんなに並んでいた人たちがキレイに満足して帰って行かれる。
神業だ。
しかしそんな私にもマイクが渡される時が来た。
最初は10人も案内する前に、
弁慶こと阪口先生が般若の顔で「本田くん変わって」とだけ言う。
そして私のマイクが引っこ抜かれる。
私の案内が遅くて混雑してしまうのだ。
それでもなんとか20人まで行き着いても、
「本田くん変わって」のコールが入る。
仕事終わりに3階に呼び出され、お叱りを受けたことも一度や二度ではない。
しかし面白いもので、あるときからスッと物療回しが出来るようになった。
患者さんの顔と名前が一致してくると、面白いほど人の動きが把握出来るようになってきた。
最初はあたふたしていた私。
弁慶阪口先生は怖かったが、患者さんたちは優しかった。
私が地元っ子だったこともあり、
患者さんの中には、私の家族の知人だったり、同級生のご家族も居た。
「さやかちゃん、頑張ってるね。」
そんな風に声をかけてもらえるのが、とても嬉しかった。
そのホーム感が、場所見知りの私がなんとか仕事を辞めずに続けられた理由かもしれない。
朝7時から、夜の10時過ぎまで。
今なら超ブラック企業の就業時間でギッチリ働かせて頂いたお陰で、2年も経つと仕事も板についてきた。
そして物療だけでなく、施術にも入るようになっていた。
この施術がものすごく嫌だった。
なぜなら番付制度があったからだ。
この番付制度とは、1ヶ月に1回。
院の上役4人に施術を受けて頂き評価をもらうものだ。
施術の技術が認められれば、頂くお給与にも反映される。
これが心の底から嫌だった。
というのも、私はもともとフワッとしたトレーナー養成専門学校卒業生で施術の経験はなかった。
だから練習は必須だった。
通常業務に加え、番付に向けた練習。
さらに、下っ端の私は洗濯などの雑務もしっかり担っていた。
そして当時受付柱の東さんが産休に入っていたこともあり、受付業務もこなしていた。
忙しいのはまだ良かったが、基本的に人見知りで人嫌いな私にとって、毎月上役の先生達に
「施術を受けて下さい」と時と場所と気分を読んでお願いしに行くのが苦痛で仕方なかったのだ。
番付制度は強制では無かった。
私はストライキを起こした。
そして山中院長に素直にお話した。
「嫌なんです。」と。
山中院長は困った顔で、「嫌なら仕方ないね。じゃあとりあえず東さんも居なくて困っていることだし、受付メインでしたら?」と言ってくれた。
そして私は施術者から、受付に舵を切らせてもらい仕事を続けることが出来た。
山中鍼灸整骨院は受付であっても、可能性があれば施術もしてごらんというスタンスの院だった。
受付柱の東さんとともに、インディバの研修に行って、インディバの施術をするようになった。
はじめは施術に入ることはとても不安だった。
一度「嫌なんです」とストライキまで起こした身だ。
美容メニューのインディバ施術と言っても、また嫌になってしまうかもしれない。
そう躊躇していた私の背中を押したのは母だった。
「勉強も資格も、して損になることは1つもない。チャンスがあるなら逃す手は無い。なんでも経験だ。」
そう言ってくれた。
母自身、子育てが落ち着いた40代の頃、専業主婦から一転働きに出た。
なんでも経験!と、仕事に役立ちそうなPC関連の資格をどんどん取っていった。
そんな母からの言葉は重く、また母の期待に応えたい気持ちもあり、私はまたインディバで施術を始めた。
やはり根っこには‘母に褒められたい。母に褒められている姿を見せたい’という想いをずっと持っているのだと思う。
受付などの仕事も覚え、インディバの施術もこなし、仕事をバリバリこなすようになった27歳の年。
私は中学校時代の同級生と結婚した。
当時の私は尖ったナイフのようだった。
人の‘出来ない部分’が目について、苛ついた。
今ではパワハラだと訴えられても仕方が無いような指導を後輩にしていた。
そこには‘私は出来る。’‘私はこの環境でやってきた。’という自負があった。
後輩がおびえていようが、辛そうにしていようが関係ない。
言うべきとを言う。それが正義だと思っていた。
そんな時、私は第一子を身籠もった。
産休に入るタイミングで山中鍼灸整骨院を辞める。
そう決めた。
5)母になって気が付いた
初めて‘逃げ’ではない辞める理由が出来た。
お腹の子は生まれる前から心配がつきなかった。
染色体異常があるかもしれない。
産前検査でそう告げられた。
産後は子どもファーストな人生にしたい。
私は決断した。
辞めるギリギリまで私は後輩に厳しい指導をしていた。
そして退職を迎えた。
山中院長からは
「産んで落ち着いたらいつでも帰っておいで。」そう声をかけて頂いた。
心配とは裏腹に、元気に産まれてきてくれた我が子。
だけれど、いつどんな問題が起るか分からない。
すぐに保育園に入れて離れて子育てをするという気持ちにはどうしてもなれなかった。
離職してからも私は山中鍼灸整骨院に患者として通っていた。
子どもも連れて行くと、皆本当に喜んでくれた。
私にとって第二の我が家であり、家族だ。
改めてそう思った。
山中院長は
「こども連れて来たらいいから、いつでも帰っておいでや。」
そう言ってくれた。
息子が一歳になる頃、経済的にも‘何か仕事をしないと’と考えていた時だった。
私は院長の言葉に甘えて、山中鍼灸整骨院に復帰させて頂く事になった。
子連れとは言え、慣れた職場。
正直もっとうまく働けると思っていた。
現実はそんなに甘くなかった。
一年間のブランクは大きかった。
息を吐くように出ていた患者さんの名前が出てこない。
歯を磨くくらい当たり前になっていた経費処理にもたつく。
新しく導入されたシステムは頭に入らない。
そして私が‘出来ないこと’を咎めていた後輩達は第一線でバリバリ働いている。
その効率のいい動きは惚れ惚れするほどだった。
また人見知りの私では絶対出来ないような患者さんとの会話術。
とにかくやってみるチャレンジ精神。
私はいかに自分の視野が狭かったのかを思い知った。
私は彼女たちの出来ないことにばかり目を向けていた。
出来て当然という視点でしか伝えられなかった。
今、出来ないことに囲まれる私をフォローして助けてくれる彼女たち。
出来ない人の気持ちを知り、私は猛省した。そして素直に謝った。
「酷い先輩だったね。ごめんね。」
すると後輩の女の子はキャハハっと笑いながら、
「私が今仕事出来るのは、全部先輩が教えてくれたからですよぉー。」と言ってくれた。
私は今でも、後輩達を心から尊敬している。
彼女たちの動き、考え方、心配りは素晴らしい。
そして私は‘自分の力で出来るようになった’というのは思い上がりで、‘周りの人たちが出来るようにしてくれたんだ’ということに気がつけた。
子育てもそうだ。
親が子どもを育てているんじゃ無い。
子どもが親に育てさせてくれている。色んな学びを与えてくれている。
そんな我が子と一緒に働けるように機会を与えてくれた山中院長。
そして我が子と一緒に働けるように支えてくれたのは、私の第二のお母さんである東さんの存在が大きい。
東さんもお二人のお子さんがいるお母さんだ。
下の娘さんは山中鍼灸整骨院に入ってから出産されている。
東さんの時代は幼い娘さんを連れて出勤なんて考えられない時代だった。
欲しくて欲しくなんとか授かった待望の娘さん。
目に入れても痛くないような待望の愛娘。早くに保育園に預けて仕事復帰するのはさぞ辛かったと思う。
それでも東さん無しには山中鍼灸整骨院は回らない。
責任感の塊のような彼女は私たちの所に帰って来てくれた。
そして私の番。
私は息子と働く選択肢を用意してもらえた。
なんて贅沢だろうと思う。
でも東さんは嫌な顔をするどころか、いつでも私たちが心地よく山中鍼灸整骨院に来られるように環境を整えてくれた。
きっと‘子ども連れで働くなんて’そんな声もあったと思う。
そんな声が私に届かないよう、東さんが壁になってくれた。
私が逆の立場なら、そこまでの行動が出来たとは思えない。感謝でしかない。
そして私は第二子である娘を身籠もり、二度目の産休を終えて復職した時だった。
「子どもを連れて来やすいように、表の仕事では無く、裏方の仕事を任せたい。」
そう言って頂いた。
ヤマナカグループ全体の経費関連をまとめる仕事。
「お金の管理を任せるなんて、身内にしか怖くて出来ないけど、君はもう身内も同然だから頼むよ。」
そう言って任せてもらえた。
6)私が’しっかり働ける姿’
あれは山中鍼灸整骨院に入って初めて参加した飲み会だった。
人見知りの私が珍しく、3次会まで付いていって、最後まで帰らなかった。
その会には山中先生の奥様も参加されていた。
最初は類に漏れず緊張したけれど、奥様の横はとても心地よかった。
心地よくて、いつまでも一緒に参加してしまったのだろう。
次の日山中先生から
「奥さんが‘あの子は良い子ね。あの子、きっと上にしっかりした人を付けた方がいい。しっかりした人の下で、しっかり働いてくれる人だと思う’って言ってたよ。」と教えてもらった。
その言葉が私の心の中にスッと入った感覚があった。
その通りだ。
私はプレーヤーとして先陣を切って走るタイプではない。
プレーヤーたちが楽しく最高のパフォーマンスでいられるように支えることに喜びを感じるタイプだ。
プレーヤーとして雇ってもらったのに、今では裏方としてプレーヤーである施術家の先生を支える仕事に挑戦させて頂いている。
あの時の
‘しっかりした人の下で、しっかり働いてくれる’という期待を裏切りたくない。
嫌なことは嫌と言うし、逃げる私を諦めず、メンバーの一員としていつも受け入れてくれている。
そんなヤマナカグループに、私は感謝しかない。
きっと私が
‘ありがとう’や‘ごめんなさい’を人に伝えられる人間になれたのは、ここで働かせて頂いているからだ。
‘誰かの為に動く’‘困っていることは無いかを先回りして考える’そんな癖がついて「エスパーですか!?」なんて嬉しい驚きの声を後輩から聞けるようになったのも、ここで働かせて頂いているからだ。
‘いつもニコニコしているね’そんな風に患者さんに言ってもらえるのも、ここで働かせて頂いているからだ。
人見知りで場所見知りの私が、こんなにも居心地のいいもう一つ家族、もう1つの我が家で働けるのは奇跡だと思う。
7)これからも大好きな人で溢れるこの街、この場所で
私の長男にとっても、幼いときから長い時間を過ごしてきた山中鍼灸整骨院は第二の我が家であり、スタッフや患者様も第二の家族や親戚のような感覚だ。
彼は小学校に入ると、学校に行かない選択をした。
職場に連れて行っていたこと。
私が幼少期から彼に与えていた経験が、どう影響したかは分からない。
けれど、私は彼の選択を尊重し、受け入れている。
受け入れられたのはきっと山中鍼灸整骨院で色んな人に色んな言葉をかけてもらったからだ。
彼自身も「学校なんて行かんでええよ!」そう言ってもらったこともあった。
みんな違って、みんないい。
社会の中ではきれい事だけど、ヤマナカグループには確かにその文化が根付いている。
だから私は息子と娘がこの先どんな選択をしても、彼らの選択を尊重したいと思う。
そんな私の考えを認め、私のやりたいようにさせてくれる主人の存在も大きい。
彼がいるから、彼が支えてくれるから、彼がほどよい自由を与えてくれるから。
私はニコニコしていられる。
つくづく私は家族に恵まれている。
父も母も兄弟も。
そして主人に子どもたち。
ヤマナカグループのスタッフに患者様たち。
やっぱり東大阪は大好きな街だ。
大好きな人で溢れている。
息子に続いて、娘も最近ある選択をした。
ラグビーをする!!という選択だ。
たまたま見に行った試合で選手にサインをしてもらって感動した娘は
「私ラグビーする!!」と宣言したのだ。
私は心の中で‘わぁっ!’と叫んだ。
中学生の時、やりたかったけど出来なかったラグビーを娘がしてくれる。
父は‘おお!’と大声で喜んだ。
昔教えていたチームに早速連絡を取って、どこのチームがいいとか、いつ体験練習があるなど、ノリノリだ。
母もウキウキ。喜ぶ父を見て上機嫌だ。
その様子を見て改めて実感した。
私は小さい頃から変わっていない。
両親が喜ぶ姿が一番嬉しい。
両親を喜ばせてくれた娘に感謝だ。
これからも、どんな人生が待っているか分からない。
まだまだ先は長い。
でもきっと、この両親や家族たちが喜ぶ姿が私の生きる原動力になる。
皆が心から喜べるように。
私はいつもいつでも喜んでサポートし続けよう。