ストーリー、新着情報
目次
1)始まりは高校3年生の夏
2)6年間の学びの時
3)僕が選んだ働き方
4)ヤマナカグループとの出会い
5)可能性
1)始まりは高校3年生の夏
「なんで、なんでなんですか。こんなに先輩達は頑張ってきたのに。
どうして顧問のせいで、僕らが振り回されないといけないんですか。
そんなの許せない、理不尽すぎる。許せない。」
時折嗚咽を漏らしながら、暑い暑いグラウンドで後輩が大粒の涙を流す。
「悔しい、悔しい。」
振り絞るような声で彼はうずくまった。
そんな後輩の背中を摩りながら、耐えがたいほどの怒りで僕の手は震えていた。
公立高校の弱小ハンドボール部。
特に理由はなく、友人が入っているという理由だけで入部した。
部員数も少なく、大きな大会に出られるような部活ではなかったが、そこで過した仲間達との日々は宝物だ。
僕らの後に入部してきた後輩達とも深い絆で結ばれていた。
共にスポーツをする楽しさを存分に味わっていた。
そんな高校3年生の夏。
ハンドボール部の顧問が不祥事を起こし、高校をクビになった。
最後の大会を控えた時期だった。
顧問の退職理由は公言されなかった。
理由を知らない生徒が大半だった。
突然顧問がいなくなった。
最後の大会は、ハンドボールの事を知らない体育教師がついてきた。
大人の事情で振り回された夏だった。
顧問は最後まで部活に顔を出すことはなかった。
直接の謝罪も、解雇の理由も、今後についても、何も告げずに消えた。
残された僕ら部員がグラウンドに集まったときに、後輩の一人が泣き崩れたのだ。
「大人の都合で子どもを泣かせるなんて許せない。」
僕は物心ついたときから獣医になるのが夢だった。
小学校の自由研究で骨折した鹿のデッサンを提出したこともあった。
大好きな動物を元気にする仕事に憧れていた。
そんな純粋な幼少期が終わり、中学生になると、獣医としての仕事内容がよりリアルに想像出来るようになった。
大好きな動物たちが病気やケガで弱っている姿を毎日見続けなければならない。臨終の際にも立ち会わなければならないだろう。
獣医の仕事をするには僕は動物が好きすぎた。
それでも動物を相手にした仕事にしか興味がなく、高校に進学すると、トリミングの資格に興味を持ち始めた。
トリミングの資格は主に犬に対するものが多く、ほとんどの専門学校が犬のトリマー養成学校だった。
しかし高校生の僕は犬よりもネコを愛してしまっていた。
探すと大阪にネコのトリマー学校が一校だけあった。
‘ここしかない!’
好きでもない勉強を大学でするよりも、大好きな動物と触れ合える専門職を身につけた方がいい。そう思い、大阪のネコのトリマー専門学校への進学を決めていた。
そんな高校3年生の夏。
後輩の涙で僕は人生の進路を大きく変えた。
‘部活動に関わる仕事をしよう。大人の事情で生徒が振り回されて良いはずが無い。安心して子どもたちが部活を謳歌出来る一役を担いたい。’
そう思った。
しかしもう高校3年生の夏。
今から高校教諭資格を得るために大学受験の準備をするには遅すぎる。
顧問という道以外に、部活動に関われる仕事はないかと考えた結果出会ったのが‘トレーナー’という仕事だった。
2)6年間の学びの時
「トレーナーになる。」
決めたら即行動。
担任に願書を提出したら「あれ、お前トリマー希望じゃなかったっけ?」と驚かれた。
‘トレーナーになって、部活動で頑張る選手たちの力になりたい。’
そう思い入学したトレーナー養成の専門学校。
3年間の学びの日々は、とても充実していた。
高校までの‘やらされている’学びはあくびが出るほど退屈だったが、トレーナー養成専門学校での学びは、自分のやりたいことに直結する学びばかりで、学んでも学んでもまだ足りなかった。
そんな中、僕を導いてくれた2人の恩師との出会いがあった。
どちらもしっかり叱ってくれる先生たちだった。
アスレチックトレーナー兼鍼灸師の資格を持ち、病院のリハビリ室長を務める先生からは、‘可能性を自分で狭めるな’と教えてもらった。
それまでの僕は、「自分はこんなんやから、ムリじゃない?」と考えてしまうところがあった。
先生は、そんな僕を一喝してくれた。
「何事にも色んなやり方がある。トレーナーだからって筋骨隆々じゃなくていい。僕なんて見た目はヒョロヒョロだ。だけどね、アメフトやラグビーの選手だって見る。なにが正解なのかという知識があれば選手達をトレーニング出来る。自分はこうだからと決めつけず、学びなさい。そして可能性を広げなさい。」
僕はいつも先生に叱られていた。
知識が足りないと、散々怒られた。
それが嬉しかった。
「本当に先生が言う通りだ。そこ知らないな。」
そう思い、また深く学ぶ。
その繰り返しだった。
もう一人の恩師は、アスレチックトレーナー、柔道整復師、鍼灸師、あん摩マッサージ指圧師などなど、資格の宝庫のような先生だった。
Jリーグのトレーナーなどをされた後、専門学校の講師をされていた。
実はこの先生は生徒から人気がなかった。
学んだ事を理解していなかったり、覚えていなかったら怒る厳しい先生だったからだ。
僕も散々怒られた。
怒られながら、僕は先生を嫌うどころか、どんどん尊敬していった。
理不尽な叱責ではなく、ズバリと僕の出来ていないところを指摘してくれる先生。
‘その通りだ’そう思い、学びを深めていった。
先生は言う。
「その程度の知識と学ぶ姿勢で現場の選手たちにトレーナー活動をするなんて選手たちに失礼だ。」
間違いない。
そう思った。
僕はどうやら、実績があり、選手や患者様に対する思いも強い先生から、叱責されることで、やる気がアップする人間のようだ。
トレーナー養成学校では、アルティメットという競技のトレーナー活動やサッカー部のトレーナー活動を経験させてもらった。
このアルティメットという競技。ケガがものすごく多い競技だった。
行く度に、ぱんっぱんに腫れるほど捻挫した足首、真っ赤に内出血した腕に対応する日々だった。
このアルティメットのトレーナー活動をしながら、内出血があることで関節の可動域制限がすごく出てしまうことに苦労していた。
‘内出血邪魔やなぁ。直接溜まった血液抜きたいわ。’
そう心の中でいつも考えていた。
しかし採血は医療行為でトレーナーには許されていない。
そんなモヤモヤを抱えていた時に、たまたま授業で鍼灸について学んだ。
授業の中で、‘鍼施術には刺絡と言って、皮膚につけた小さな傷から老廃物や滞った血液を取り除き症状の改善を促す技術がある。’と知った。
‘これなら合法的に血が出せるやん!!’
大発見だった。3年間通ったトレーナー養成専門学校を卒業すると、今度は鍼灸師養成専門学校で更に3年学んだ。
全ては内出血を起こしている患部から、物理的に血を抜く為に。
スポーツ鍼灸にも精通しているし、アスレチックトレーナーの資格を持つ鍼灸師の先生も居ると聞き、僕は森ノ宮の鍼灸専門学校に入学した。
今か今かと学んだ刺絡の技術。
内出血した患部に鍼を打って、血を抜こうとしたが出来なかった。
そもそも内出血を解消する技術ではない。
ただ患部に鍼を打たれて痛いだけという結末に。
そもそも内出血で血が溜まるから可動域制限が起る。
それならば、ケガをしたらすぐに患部を圧迫して冷やすなどの適切な処置が出来ればそれほどまでに内出血はたまらない。
鍼灸の専門学校に入ってから、出来てしまった内出血を鍼で解消させるよりも、酷くならないよう予防した方がいい。今振り返れば当たり前のことだが、その結論に達した。
とは言え、奨学金を満額借りて入学した鍼灸の専門学校。
1つでも2つでも学ぶぞとは思っていたが、鍼灸独特の東洋医学の勉強は全く頭に入らなかった。
物理現象として説明出来る分野にしか興味が持てなかった。
「ツボって言われても。気なんて、見えへんやん。」
僕は東洋医学に興味が無い。
つくづく思い知らされた。
でも鍼灸は鎮痛させたり、筋肉を緩めたり、可動域を変えるのにとても使える技術としてしっかり会得した3年間だった。
3)僕が選んだ働き方
卒業後。
いよいよ社会人としての第一歩。
沢山の鍼灸整骨院があるけれど、スポーツ選手にとことん関われる場所を探していた。
幸運なことに、近所にある鍼灸整骨院が理想の形で選手へのトレーニング活動と施術をしていた。
ホームページには採用募集の言葉は無かったが、とりあえず電話して面接してもらった。
その院は、メインの先生がお一人。サブの先生がお一人の2人体制だった。
しかし、ほぼ先生たちは院に居なかった。
トレーナー活動がメインで、隙間時間に院で患者様を見ているような状態だったのだ。
「うちの院に来ても、正社員のような固定給は難しい。でも、院を任せるから、自分で患者様捕まえて、施術とトレーニングしてみたらどう?」
その採用条件に、僕は二つ返事で「お願いします!」と答えた。
一般的には正社員として固定給をもらって、安定した収入や、安定した昇進や、安定した生活を望む人が多いと思う。
しかし僕はこの‘安定’が非常に苦手だ。
本音を言えば、常にハラハラドキドキしておきたい。
常にジェットコースターのように浮き沈みがある波瀾万丈の人生。
最高だ。
経営の‘け’の字も知らない新卒の僕がいきなり院を任された。
しかし、この時も僕は運を味方に付けた。
丁度横には大型スポーツジムがあった。
立地的に、集客には困らなかった。
またトレーナーの先生からの紹介で色んな競技の選手たちも通ってくれていた。
大変というよりも、楽しい社会人生活のスタートだった。
トレーナーの先生は、僕に直接仕事の仕方を指導するタイプではなかった。
しかし実績も信頼もある先生だった。
僕はこのトレーナーの先生から、競技選手に対するトレーニングのイロハを盗んだ。
‘成功している先生のトレーニング内容なんだから、間違いない。’
そう思い、施術やトレーニングをすると結果もついてきた。まるで昔からそのトレーニング技術でやっているかのような自信満々な態度で常に選手たちや患者様と向き合えた。
また、先生は色々な競技のトレーナー活動を行っていたが、メインはフィギアスケートとバレエだった。
僕の元にも、これらの競技の選手が訪れ、個人的にトレーナーとして帯同することも増えた。
ただ、僕は専門競技を絞ることはしなかった。どんな競技の選手が来ても対応する。
トレーナーの中には‘専門競技’を絞って対応する人も居るが、僕はそれには否定的だ。
多分昔恩師から言われた‘可能性を狭めるな’という言葉が芯にあると思う。
選手が来たら、僕が勉強して僕が柔軟に対応出来ればいいだけの話だ。
そう言うと、仲間からは
「専門性がないと、信頼されなくないか?」
とか
「詳しくない競技の選手を見ても、何を望んでいるのか、どうしたら望むようなトレーニングが組めるのか分からなくないか?」
と聞かれることもある。
そんな時は一言。
「選手に全部聞く。」
と答える。
分からなければ相手に聞けば良い。
どうなりたいのか。何が課題だと思っているのか。
その競技の特性は?コーチや監督から改善するよう言われることは?逆に褒められることは?
全て聞く。
その上で、自分でもしっかり調べる。
そして、その選手が望むトレーニング内容を一緒に作り上げていく。
僕は失敗が怖くない。
怒られるのも怖くない。
それは、成功している結果を出している人たちの‘正解の方法’をどんどん吸収し、自分のテクニックまで昇華して、自分のオリジナルを加えていくという作業を繰り返しているという自信と、失敗も叱責も全て受け止める覚悟があるからだ。
僕は絶対に逃げない。
僕は絶対に卑怯なことをしない。
無責任が大嫌いだ。
後輩を泣かせた顧問のような人間には絶対ならない。
だからこそ、自分の行いに責任を取る覚悟で、出来る事をやる。
知らないことを減らす努力を惜しまない。
知識も技術も‘いい’と言われることは、とりあえずやってみる。
新卒で院を任せて頂き、2年目には一般的な正社員と変わらないほどのお金を稼げるようになり、自信も信頼も実績もついてきたころ。
僕は院を辞めることにした。
お世話になったトレーナーの先生と、ある選手のトレーニング内容について、どうしても折り合いが取れないことが起った。
互いに譲れない部分がぶつかり合い、
‘潮時だな。新しい場所に移ろう。’そう決めた。
「次を探さないといけないんです。引き続き、ここに通えるかも分からないです。」
次の職場を探している事を、施術往診をしていた空手道場の師範に伝えた。
すると師範は、大きくよく通る声で
「ええ院知ってるで!紹介したるわ!!」
4)ヤマナカグループとの出会い
深夜11時。
ヤマナカグループの藤原代表に電話をかけてくれた。
「良いトレーナーさんが居るんですわ。そう!鍼灸師ももってはります。」
トントン拍子で面接となった。
スーツを着て挑んだ面接。
「じゃあ、まず施術してもらえます?」
僕は今まで人の身体を揉んだことがなかった。
「すみません。今まで揉みの施術はしてなくて。」
「あぁ、そうかトレーナーメインでしたもんね。じゃあ鍼をしてもらえますか?」
‘やった!’得意げに鍼を打つ用意をする。
鍼道具はヤマナカグループの物をお借りした。
この鍼が今まで触ってきた鍼と全く違う代物だった。
意気揚々と藤原代表の背中に鍼を打とうと思うが、鍼が身体に入らない。
‘ヤバい‘
一気に汗が噴き出る。
経歴詐称では無いんです。
そう言いながら、何度か挑戦するも、鍼は一度も皮膚を破ることは無かった。
終わったな。
ただただ面白かった。
「鍼の打てない鍼灸師って!」
汗でびしょびしょのスーツを着ながら、帰り道笑いながら帰った。
「採用です。」
‘マジでか’
本気で驚いた。
どうやら、トレーナーとしての技術と経歴を認められたようだった。
「施術は学んで下さいね。」
そう言ってもらった。
そこから早くも6年になる。
この6年間。
「施術は学んで下さいね。」
その言葉通り、ヤマナカグループにいる先生達の‘結果が出せる施術技術’を貪欲に学んだ。
0から1を生み出すのは難しい。
でも生み出さなくても既に成功している人が沢山居る。
ヤマナカグループには特に色んな分野の‘正解’を知る先生が居た。
それを自分の物に出来るように、どんどん吸収していった。
ただ、使える施術にまで学んだ事を昇華させてくれたのは、今まで出会ってきた全ての患者様のおかげだ。
特に忘れられないのが、僕がまだまだ施術技術も十分でないころから、僕を信じて身体を預けて下さっている方だ。
ヤマナカグループに入ってすぐの頃、トレーナーで培った技術とカウンセリング力が認められ、ダイエットキャンペーンをさせてもらった。
3ヶ月で痩せるというもの。
そのキャンペーンがその患者様との出会いになった。
3ヶ月で結果を出すために。
どうして痩せたいのか。
痩せてどうなりたいのか。
どうしたら痩せるのか。
いつものスタイルで、一緒になってトレーニング内容を決め、一緒になって‘もっとこうしよう’と相談しながら3ヶ月取り組んだ。
本当にその方はダイエットを頑張って下さった。
僕と約束したことは必ず守ってくれた。
辛くても家でトレーニングも続けてくれた。
その結果、3ヶ月後には理想的な体型になった。
「嬉しい!!」
喜んでくれる患者様の笑顔が僕の励みになった。
その3ヶ月の帆走で、患者様は僕に信頼して身体を任せて下さるようになった。
当時、僕よりも人気で腕のいい先生たちが多かったが、その方は迷わず僕を指名してくれた。
「先生は私にとって癒しだわ。」
「やっぱり最後は先生やね。」
そんな嬉しい言葉を沢山下さった。
この6年間の間に、肩の痛みや腰の激痛など。
様々な身体の症状が起ったが、その都度僕に身体を預けて下さっている。
「私ね、65歳まで働きたいの。」
看護師をされている患者様に最初の頃に言われた言葉。
「じゃあ65歳になってもバリバリ働ける身体作りましょう!」
そして65歳を迎えると、
「私ね、70歳まで働きたいの。」
「分かりました!70歳までバリバリ働ける身体を作りましょう!」
そして今では。
「私ね、75歳まで働きたいの。」
そう言って下さっている。
そして、可愛らしい笑顔で釘を刺すように、
「だからね、先生それまでずっと施術お願いするわよ、他の院に行ったり、身体壊したりしたら私困るんだから、頼むわよ。」
そう付け加えて下さる。
こんなにも信頼してくれる患者様と出会えるなんて、なんてありがたいことだろう。
他の患者様も「こうしたい。」「こうなりたい。」と目標や希望を口にされることが多い。
「先生はしっかり聞いてくれるでしょ?
どうなりたいですか?
どうしたいですか?って。
聞いてくれるから、それまでボンヤリしていた‘こうだといいな’が具体的にこうなりたい!と思えるようになるの。
こうなりたい!と具体的に思えたら、叶うように頑張れる。
先生も一緒になって考えてくれる。
先生が聞いてくれるから気がつけるのよ。ありがとう。」
そう言って頂いたときは、本当に嬉しかった。あまのじゃくな僕は顔には出さないけれど、そんな嬉しい言葉を頂いた日は、いつも以上にお酒が美味しい。
僕は、叱られるのも、怒られるのも怖いと思った記憶は無い。
きっと失敗することで何かを失う怖さよりも、失敗を通して学べることや、失敗してどん底に行ってそこから這い上がることの方が楽しいと思えるからだと思う。
間違えたくない、信頼して欲しい、期待を裏切りたくない。
もしそんな気持ちがあったら、今のようなカウンセリングは出来なかっただろうし、患者様と‘あーでもない、こーでもない’と言いながら、常に良い方法を模索するような泥臭い施術も出来なかったと思う。
こんな僕でも身体を預けて経験を積ませて下さった患者様には感謝しかない。
そして得られた経験を糧に更にスキルアップしたものを今後も提供していきたい。
5)可能性
ヤマナカグループでの施術とは別に、僕は今高校の部活動のトレーナー活動も行っている。
高校1年生だった部員も3年生になる。
1年生の頃から3年生まで。
共に部活動を過させて頂いている。
あの時の後輩の涙は生涯忘れない。
そしてそんな涙を流さないで良いように。
全力で部活を楽しめる3年間を過して欲しい。
僕に出来ることはまだまだ限られているけれど、これからも自分の可能性を狭めることなく、部活とも関わり続けたい。これは僕のライフワークだ。
トレーナー養成学校の先生から、自分の可能性を狭めるな、可能性は沢山ある。その言葉は、今でも僕を奮い立たせるし、戒めにもなっている。
可能性を狭めてはいけないのは、患者様や選手たちに対しても一緒だ。
僕が伝えたこと。僕が正解だと思っていること。僕の価値観。
それらは、絶対正解ではない。いくつかあるうちの選択肢の一つだと伝えるようにしている。
やり方は沢山ある。
その中で、どれが正解かは分からない。
ただ、目標に向かって向かうルート上には沢山の選択肢があって、どの道を選んでも、最終的に自分のゴールにたどり着ければいいと思う。
失敗しても再挑戦したらいいし、引き返してもいい。
ゴールはなくならない。
僕の施術や指導が誰かの蓋になってはいけない。
そう心に決めている。
僕は飽き性だ。
スリリングなジェットコースターのような不安定な生き方を好む。
そんな僕を受け入れ、変化を恐れず変化を楽しむヤマナカグループ。とても居心地が良い。
トレーナーとして施術家として、僕の可能性もまだまだ広がっている。