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ストーリー、新着情報

2024年7月31日

唯我独尊と言われた私のお話

私は人の言葉の裏を読むのが苦手だ。

 

言葉の通りにしか、意味を見いだせない。

 

所謂’腹の内を探る’ことが出来ないから、

目に見えること、耳で聞き取ったことを素直に受け取り、自分なりに解釈をする。

 

社会に出れば、白が黒になったり、理不尽も飲み込まないといけないことは多々ある。

チームで働く目的も、チームの利益の為ではなく、チームの中でのし上がるためにマウント合戦になることだってある。

 

私はそれがとてもとても苦手だ。

 

それはきっと、私が幼少期から30歳までスポーツの世界にどっぷり浸かっていたからだと思う。

 

One For All.

All For One.

 

チーム内で腹の探り合いなんて、勝利という目標達成の為に無駄でしかない。

探るべきは敵の戦略についてのみであり、自分たちチーム内の探り合いなんてしない。

監督やコーチからの絶対的な指示。

チーム内での連携。

互いにぶつけ合う本音。

 

そんなスポーツの現場が大好きだった。

 

まっすぐで、分かりやすい。

 

私は小学5年生から高校3年生までバスケットを続けていた。

すごく上手なわけでも、すごく下手でもなく。

レギュラーではないが、2群でもないポジションにいつも居た。

 

レギュラーがケガをすると、私に出番が回ってくる。

だから私はケガをしても休めなかった。

捻挫や成長痛。

痛くても試合に出たい一心で絶対に休まなかった。

 

チームの皆と連携して勝利を目指す。

明確なゴールがあり、

そこに進む一体感が大好きだ。

監督からの指示を受けて、チームがまるで1つの生き物のように連携して動く感覚は快感でもあった。

 

でも私たちも人間だ。

言われたとおりにやっても、沢山練習しても、勝利をつかめないことがある。

プレッシャーやトラウマ。

そこには選手のメンタルが大きく関係していると感じていた。

 

試合が始まる前、「ここまで来たら、あとは自分を、皆を信じてやり抜こう!」そんな声かけがあった。

’選手の動きは、メンタルで変わるな。’

ベンチで皆の動きを観察しながら、いつも感じていた。

 

大学への進学を前にして、私は心理学を学びたいと考えた。

 

メンタルが人の行動にどう影響するのか。

スポーツ現場で感じていた心理と行動との関係を、もっと学問的に学び、将来的にはスポーツ現場で選手を支えるような仕事をしたいと進路希望に書いた。

 

当時は心理学部が大人気で倍率も凄かった。

どうしようかと悩んでいたら、先生から「スポーツと関わりたいなら、ここでも心理学を学べるぞ。」そう教えてもらった。

そしてその大学が母校になった。

大学では、心理学だけでなく、スポーツ科学なども学ぶことが出来た。

 

スポーツ現場で感じたり、経験していた現象。

うまく言葉では言えないが、経験として感じていたメンタルと運動との関連について、大学で学術的な言葉を沢山学べた。

私のスポーツで感じていた経験則が、学問的な理解へと昇華していくのはとても面白かった。

 

そんな時、たまたま見た雑誌に、アスレチックトレーナーの勉強会が開催されるという記事があった。

その当時、アスレチックトレーナーは日本で20名ほどしかいなかった。

日本ではまだ認知度は低く、アメリカで資格取得したトレーナーが日本に帰国後、普及活動をしていたような時代だった。

 

私はすぐにその勉強会に応募した。

今学んでいる学問をスポーツ現場で活かすことが出来る。

机上の論から実践へ。

私は机に向かうより、現場が合っている。

 

私はスポーツ現場に戻れる喜びを感じていた。

 

アスレチックトレーナーの恩師の元、学びを深め、大学卒業後に東海大学アメフト部のトレーナー活動を始めた。

 

インターントレーナー。

給与は無い。

無いどころか、お金を支払って、トレーナーをさせて頂いていた。

 

トレーナーはさせて頂く。

そんな時代。

 

 

家賃は頼み込んで親に仕送りしてもらっていた。

生活費はアルバイトで稼いだ。

毎日15:30~トレーナー業が始まる。

それまで早朝からアルバイトをして、なんとか生活をする極貧生活を送っていた。

 

でも、とても楽しかった。

トレーナーとして選手のケアに当たることができる。

それは至福の喜びだった。

バスケット部でケガをしてもベンチで待機していた私は、選手達の試合に参加したい気持ちを身体の面でも心の面でも支えられる事に、喜びを感じていたのだと思う。

トレーナーをして生活は苦しかったが、私には天職だと思った。

 

アスレチックトレーナーのボスからは、2年で完成形を作れと言われた。

2年以上は続かないと言われた。

 

男の子のインターントレーナーは頑張り過ぎて救急車で運ばれる。

女の子のインターントレーナーは嫌になって辞めていく。

そんな世界だと釘を刺された。

 

2年経ったら、給与をもらえるくらいの技術を身につけなければならない。

毎日必死だった。

 

そんな中、私は幸運にも、高校生のバレーチームのトレーナーをしないかというお話を頂いた。

当時大塚製薬が高校生の部活を応援するプロジェクトとして、大塚製薬の製品購入と引き換えに、トレーナーを派遣するという事業を行っていた。

その派遣事業の派遣トレーナーに推薦して頂いたのだ。

 

お金を払わずトレーナーが出来る。

しかも、東海大のトレーナーは私以外にも沢山トレーナーが居て、なかなか実践をつむ機会が無かったが、この高校生の部活動ではトレーナーは私一人。

沢山実践出来る。

こんなチャンスは滅多に無い。

 

二つ返事で、引き受けた。

 

年間の支給額は3万円程度。

 

生活は引き続き苦しかったが、東海大のトレーナーと高校バレー部のトレーナー。

2カ所で私はトレーナー活動を始めた。

 

そんな時、高校バレー部で部員がケガをする事故が起きた。

私はトレーナーとして病院に付き添うことを選んだ。

病院に付き添うなら、東海大のトレーナーとしての仕事を少し休まなければならなかった。

 

意を決してボスに伝えた。

「高校生の病院に付き添いたいから、この時間に帰ります。」

 

私の判断は、ボスの逆鱗に触れた。

 

「お前には2束のわらじは無理だ。

どちらにも全力を出せるほど、お前は器用じゃ無い。

高校生を優先するなら、東海大のトレーナーは辞めるんだ。」

 

私はその通りだと思い、身を引いた。

 

それから高校生のバレー部のトレーナーに集中した。

このトレーナー活動は2年続けたが、とても良い経験だった。

私しかトレーナーがいないので、一人一人の選手の状態を全部把握し、どのようなケアをすれば改善し、どうしたら失敗するのかを身をもって経験させて頂いた。

 

練習中や試合中のトラブルにも即対応する力もついた。

 

顧問の先生から

「僕が大塚さんよりお金を出します。

だからもっとメインで入って欲しい。」

 

そんなお話を頂いた。

 

毎週顧問の先生が競馬で稼いだお金で、私は高校女子バレー部を支えた。

それでも生活するにはやっとで、相変わらず飲食店やコンビニなど。時間に融通が利くアルバイトの掛け持ち生活だった。

 

まるで若手芸人のような生活。

5年目を前にして、両親から「そろそろ自立してほしい。」と連絡が来た。

ずっと家賃を仕送りしてくれていた両親には感謝しか無い。

 

正社員で働きたい。

 

思いついた先は、勘当されたアスレチックトレーナーのボスの会社だった。

 

トレーナーはコネと紹介の世界。

一から就職先を探すのは難しかった。

 

私は意を決して、ボスのところに「就職させて欲しい。」とお願いしに行った。

 

ボスからは、高校生のトレーナーを辞めて、ボスの会社一本にするならとお許しを頂いた。

 

バレー部のトレーナー最終日。

チームの皆からお手紙やプレゼントを頂いた。

顧問の先生とは今もSNSで繋がっている。

 

「今まで厳しく指導するのが基本だと思い、選手を追い込んだり、ケガをさせることも日常的にありました。

しかし、選手達と厳しさだけで無い関わり方で、彼らの身体も心もケアして下さるあなたのトレーナー活動を見て、

選手との関わり方にも色々あるのだと痛感させられた2年でした。

この学びは、僕にはとても貴重でした。

今後も監督として、あなたに教えてもらった姿勢を胸に選手達に関わっていきます。」

 

そんなお言葉を頂いた。

あれから25年ほど経つが、監督はまだ現役で選手達を指導されている。

私が居なくなってからも、色々なトレーニングや指導方法を試行錯誤しながら導入されていると聞いている。

 

そんな素晴らしい監督率いるチームを抜けて、私は正社員として始めてキチンとお給料を頂きながら働き始めた。

しかし1年後、ボスから呼び出しがかかった。

 

「今度、昔お前の後輩だった奴が、アメリカでアスレチックトレーナーの資格を取って帰ってくる。

昔の後輩が、今度は上司という立場になる。

それではお互い辛いだろう。

 

他の会社に推薦したいとも思ったが、いかんせんお前は無資格だ。

確かに経験や実績があるが、どうしても資格の有無で書類は通りにくい。

もしトレーナーで生きていくなら、鍼灸師や柔道整復師のような資格を取ってはどうだ?」

 

 

そう告げられた。

私自身、無資格の限界を感じていた。

お金を貯めてアメリカに行くのもいいかなとも思ったが、まだまだ貯金もない。

 

今まで散々すねをかじってきた両親に、相談することにした。

 

両親は「大阪に帰って実家暮らしをするなら学費を出してやる。一度帰ってこい。」

そう言われた。

 

27歳。

神奈川の土地を離れ、故郷大阪に戻った春だった。

 

大阪では、鍼灸の短期大学に通学した。

慣れない東洋医学や大量のツボの名前に四苦八苦する日々だった。

 

勉強と同時に、兵庫医科大学のアメフト部のトレーナーをしてほしいと依頼があった。

当時、トレーナー業はコネと推薦の世界。

私も少しは推薦を頂けるような経験を積めていたんだと嬉しかった。

 

兵庫医科大学のトレーナー業は、鍼灸の学生の間だけという契約だった。

鍼灸師の資格を取ると、今度は社会人チームにトレーナーで来て欲しいと紹介を頂いた。

 

平日は鍼灸整骨院に勤務して、土日祝はトレーナーをする。

そんな生活だった。

 

私はもう30歳を過ぎていた。

30歳になると、今のような休みも無く走り続けている生活でいいのかと不安に思う日が増えた。

 

そんな時、私に膠原病の因子があることが分かる。

「直射日光はなるべく避けて欲しい。」

そう医師に言われたが、トレーナーである以上、常に直射日光の下にいる。

 

そんな時、当時付き合っていた彼から

「もっと二人の時間を作って欲しい。」

そう言われた。

確かに付き合っていると言っても、ほとんど会えない。

平日は仕事。

休日はトレーナー。

 

彼とは結婚も考えていた。

周囲の友人は結婚、出産、子育てを楽しんでいる。

 

私も、そんな生活が幸せなんじゃないか。

そう思えた。

子どもを授かることを考えると、30歳を過ぎたなら、結婚も出産も早いほうがいいに決まっている。

 

彼からは、結婚する条件として

 

仕事は9時から17時まで。

土日祝は休んで家にいる。

大型連休も休む。

 

そう言われ、私も、確かにそれが普通の生活だもんなと納得した。

 

この条件を飲むには、トレーナー業は辞めなくてはならない。

天職と思い、極貧生活でも苦労と思わず、突っ走ってきた20代。

30を迎えた今、トレーナーとして大成功してはいない。

相変わらず休みの無い生活。

もしあと10年同じ生活をしたならば、私に何が残るだろう。

 

家族は作れるだろうか。

難しいだろう。

 

そもそもトレーナーとして大成功している40歳の自分を想像出来ない。

 

それならば、ここまで全力で取り組めたことに花丸をあげて、残りの人生は家族との時間を優先して、

仕事はお金を稼ぐためだけの手段と割り切ってしまおう。

 

そう考え、私はトレーナー人生に終止符を打った。

 

大袈裟な言い方にも聞こえるが、この時私は一度死んだような感覚になった。

そして生まれ変わって、新しい人生を歩み始めた。

 

新しく始める仕事は、彼の条件を満たさなければならない。

丁度近所にある山中鍼灸整骨院で鍼灸師を募集していた。

 

「ここなら定時で終わらせてもらえれば、すぐに帰られるし、家での時間も確保出来るな。」

そう考え面接に行った。

 

面接官は、なんと鍼灸学校の同級生の青田くんだった。

久しぶりの旧友との再会が面接で笑ってしまった。

私は振り返れば’ものすごくワガママ’な条件を提示した。

 

当時、17時には帰りたい。

土日祝、大型連休休みたいと行って採用してくれるような治療院なんてなかったと思う。

 

でも山中院は採用してくれた。

 

正直に告白する。

山中鍼灸整骨院で働き始めた頃。

私のモチベーションはマイナススタートだった。

トレーナー職が大好きだったから、新しい人生に燃やせるような情熱はなかった。

 

ただ、やるべき事はしっかりやると心に決めていた。

与えられた仕事、責務、役職は期待以上に結果を出していかねばと考えていた。

そして、社会人たるモノ、だれもがそのように思い働いていると決めつけていた。

 

そんな時に、患者様から

「先生は唯我独尊やね。」

そう言われた。

 

唯我独尊。

人生で始めて聞く言葉。

調べてみると、’この世で、自分ほど偉いものはいないとうぬぼれること。’とあった。

 

ガツンと頭を殴られたような気付きがあった。

 

私はそれまで、選手達の為に全力を出してきた。

そのトレーナー業を辞めて鍼灸師業を始めても、全力の出し方が分からなかった。

それに、仕事はお金の為。

また全力を出して、生活をないがしろには出来ないと心にストッパーをかけていた。

 

それでも給与以上の仕事をせねばという責任感だけは強かった。

やることはやっているという自負もあった。

 

私は自分の正しさが一般常識で、私の知る一般常識と違うことをする人が気持ち悪かった。

仕事なら責任感を持て。

チームでやるなら連携しろ。

上司からの指示は絶対だろ。

 

でも、そんな態度は唯我独尊だと思われても仕方ないと思えた。

 

山中鍼灸整骨院には、個性的で私からすると常識外れな人たちが沢山いた。

でも、色んな常識や価値観があるから、沢山の患者様のニーズに応えられている。

 

そもそも私はそんなに偉いのか?

私の常識を押しつけているけれど、私自身の仕事へのモチベーションは棚に上げまくっている。

 

そうか。

皆変わっているなと思っていたけれど、

皆からしたら、私も相当変わっているんだな。

 

そんな風に気が付いた。

 

それから、私は少し肩の力を抜けるようになった。

今までと全く違う生活だが、楽しもうと思えるようになった。

 

これまで選手に対して全力であったように、

これからは患者様に全力を出してみよう。

 

そう思えるようになった。

 

施術はだんだん好きになった。

自分が受けて気持ち良かった施術を再現してみると、患者様の身体も硬い筋肉がスッと緩んだり。

教えてもらったテクニックを使うと、関節の可動域がビックリするほど変わったり。

 

人の身体は変わるんだな。

まるで実験を楽しむ子どものように、患者様の身体の数だけ経験を積ませて頂いた。

 

そんな中気が付いたのが、頭で考えて施術するよりも、手の感覚で施術した方が結果が出るという事だった。

 

施術家にも色んなタイプがある。

論理的に考えて、治療内容を組み立てて、施術していくタイプ。

手の感覚が鋭く、経験則を元に全身を触り変化を出していくタイプ。

 

私は圧倒的に後者だ。

 

私の手はいつも、患者様の肌に触れている。

冷えていないか。

硬くなっていないか。

浮腫んでいないか。

 

冷えにも色々ある。

表面は冷えているのに奥が熱い冷え。

温めても温めてもすぐに冷える冷え。

痛そうな冷え。

 

硬さにも色々ある。

グミのような感触の場所や、ゴルフボールのような場所。

団子の中に石が入っているような場所など。

 

そしてもちろんむくみにも色々ある。

頭のむくみ。

足のむくみ。

詰まって滞っているようなむくみ。

 

なんとも言葉にしにくいけれど、身体から聞こえる一つ一つの情報を丁寧に探っていく。

そして、冷えていたら温め、硬ければ緩め、浮腫んでいれば流す。

 

簡単なようで、実は奥深い。

 

同じ患者様でも、身体はコロコロ変わる。

 

私は患者様の身体と対話するような施術をしている。

 

「ここが冷えているね、こうやって温めよう。どう?ほら!温まった!ん?周りも緩んできたね。血が来るよ!」

声には出さないが、私の手はいつもこんな風に身体と対話している。

 

そして私自身は患者様と施術中大いに盛り上がることが多い。

 

私はメンタルが身体に与える影響を知っている。

だからこそ、難しい話はなしにして、笑って楽しんでもらったら、それだけでも身体は楽になると思っている。

 

「先生今日も元気やな!悩み事なんてなさそうやな!」

 

そう声をかけてもらえるのが一番嬉しい。

 

本当は沢山悩みを抱えて生きてきた。

家族との時間を大切にしたいと決断したが、主人との生活は10数年で終わりを迎えた。

子どもを産むこともなかった。

 

夫と子どもに囲まれて、大変だけど妻や母親を頑張る友人達を見て、

私もそんな人生が幸せなのかなと思っていたが、

どうやら私には私の幸せな人生があるようだ。

 

’普通なら’

’一般的に’

’常識的に考えて’

 

もし私が山中院に来た頃のまま、唯我独尊で、自分自身の常識を振りかざし続けていたら、きっと今頃その常識で私は苦しかったと思う。

 

常識なんて人それぞれ。

幸せだって人それぞれ。

 

皆違って、皆いい。

 

令和になり、今では多様性が重要視されている。

けれど、私はこの多様性を山中院で教えてもらった。

そして私も私で花丸だ。

そう自分を認めてあげられるようになった。

 

言いにくそうに、私に「先生は唯我独尊やな。」

そう言ってくれた患者様とはまだまだご縁が続いている。

 

ホノルルマラソンに挑戦されると聞いて、必死にコンディションを整えさせて頂き、見送る際にはお手紙をお渡しした。

するとお手紙をウエストポーチに入れて完走してくださった。

 

富士登山をすると聞き、一緒に同行させてもらった。

 

「先生って、いつも一生懸命だよね。裏表もないし。絶対裏切らない。

色んな大変な経験もあるのに、いつもスーパーポジティブで周りまで元気にしてくれる。

よー分かっているように見えるくせに、実は自分のことはよく分かってなかったり、変に抜けてる可愛らしい面もあるし。

 

施術者と患者という関係だけに留まらず、

また人生の中で何か一緒にやりたいなって思える人やわ。」

 

そんな嬉しいお言葉を頂いた。

 

山中院に入ったときは、私は自分がこんなにも施術が好きになると思わなかった。

 

でも、振り合えれば

トレーナーも施術も頑張る人を応援するポジションにある。

トレーナーは選手が活躍出来るように。

施術者は患者様がやりたい事が出来るように。

 

薬に頼らず血糖値を下げたいと聞けば、施術だけでなく一緒に運動もして、結果を出して喜びあった。

大切な商談を控えているのにストレスと多忙でぎっくり腰になったと聞けば、商談までにビシッと歩けるまでに回復出来るようサポートし、痛みを繰り返さないようにフォローをする。

同窓会で初恋の人に会うと聞けば、肌つや、見た目年齢若返り、スタイルアップ、’難しい’や’無理’は禁句でやれることを全力でやり、若返っていく姿を患者さんと喜び合った。

 

沢山の人たちの挑戦を応援出来たのは、

私自身が山中院で、山中オーナー始め、沢山のスタッフに挑戦することを支えてきてもらったからだ。

 

挑戦して失敗しても責められるのではなく、解決策を一緒に考えてくれる。

そんな温かい経験を沢山させてもらえたから、

私自身誰かの挑戦をしっかり支えて応援出来るような人間でありたいと強く想う。

 

 

人生100年時代。

私も折り返し地点にいる。

 

笑顔と元気を振りまくにも、体力的に辛い時が出てきた。

 

私は自分の技術を体系立てて、後輩に伝えるのが苦手だ。

感覚でやっている施術は、どうしても伝承しにくい。

 

でも、教えて欲しいと言われれば、惜しみなく伝えるようにしてる。

それは、私に身体を預けて下さった患者様への恩返しになると思うから。

 

私が現役を引退しても、若い先生たちが、私が培ってきた技術を活かして、一人でも多くの方の笑顔と元気に繋がると、これ以上幸せなことはない。

 

そして私は少しずつ人生に余裕を作るようにしている。

 

私はいつでもご機嫌でいたい。

私がご機嫌で、悩みなんてなさそうに施術をすることが、患者様の元気に繋がると知っているから。

 

最近では八百万の神じゃないけれど、

使わせて頂く空間や道具に、’ありがとう’と伝えるようにしている。

 

物も感謝を伝えると、感謝を返してくれる。

 

心地よい空間で過す日々は幸せだ。

 

 

唯我独尊の意味を改めて調べると

 

’ 他と比べて自分のほうが尊いということでもない。

天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、

しかも何一つ加える必要もなく、

このいのちのままに尊いということの発見である。’

 

私は人の腹の内を探るのが苦手だ。

だから私自身も直球の言葉しか出せない。

 

私は人生迷路と言われる。

器用では無い。でもいつも情熱を燃やし、熱を込めて行動する。

 

私は今を生きている。

あの頃は良かったとか、こうなりたい未来があるとか、過去や未来はあまり見ない。

今が一番若く、今が一番好きだ。

 

こんな私の施術が好きで、元気が出て、笑顔になれる。

そう言ってくれる患者様の為に。

私は唯我独尊!

私自身を認め、周りの人も認め、

そして等しくいのちの灯火を燃やす患者様の身体に、この手で熱を入れる。

 

 

 

 

 

 

 

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