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ストーリー、新着情報

2024年7月19日

左利きのあまのじゃくな僕のお話

僕は左利きのあまのじゃくだ。

左利きは、感覚でモノを見るらしい。

 

確かに僕は映像で立体的に’人の身体’も’建物の構造’もとらえるのが得意だ。

 

そしてあまのじゃくだ。

右がいいと聞けば、左に行ってみたくなる。

主人公が良い漫画と聞けば、悪役のボスキャラが好きになる。

 

そんな左利きのあまのじゃく。

ややこしい性格であるはずの僕が、

出会いの中で、ヤマナカグループで一番のカイロプラクターと呼ばれるようになった。

そんなお話。

 

 

シャコタンした車にウーハーを乗っけて、

好きな音楽のビートと、心地よいエンジン音に包まれながら、

関西の道を走り回っていた20代の頃。

 

治療家とはほど遠い、建築現場の職人として働いていた。

 

「僕にサラリーマンは無理やな。接客業なんてありえへん。」

 

僕は世に言うコミュ障だ。

相手の気持ちをくみ取って、言葉を選んで会話するのが面倒くさくて仕方ない。

気の合う少数の人間と、濃い関係が作れればそれで良かった。

 

嫌いな奴とも連携して、

時には人に頭を下げて、

毎日毎日決まったスケジユールで働くサラリーマンにはなれないなと思っていた。

 

古本屋を営む母の影響もあり、本は好きだった。

店番しながら、ミステリーや時代劇などを読んでいた。

 

だが、学校で課せられた勉強をこなすのは大嫌いだった。

先生に指図されるのが嫌いだった。

 

だが、小学校の頃から図工は常に優等生だった。

手先が器用で、物を壊すことも作ることも大好きだった。

人と向き合うよりも、物と向き合う方が性に合っているんだろう。

 

「頼むから高校だけは出てくれ。」

両親に懇願され、いやいや入った工業高校。

 

「頼むからノートだけは出してくれ。」

先生から懇願され、いやいや出したノートのお陰で卒業出来た。

 

高校では、勉強よりも手で遊ぶことに熱中した。

ゲームにバイクだ。

 

父は小さな不動産屋をやっていて、貧乏ではなかったが、息子に自由になるお金をくれるほど裕福でもなかった。

 

そこで僕は、ゲームが欲しくなれば、安く手に入るだろうとゲーム屋でバイトをした。

バイクが欲しくなれば、安く手に入るだろうとバイク屋でバイトをした。

 

高校生3年になると、大変だ。

今度は車が欲しい。

 

だが、車は免許を取るにも、車を買うにも、改造するにも相当なお金がいる。

バイトでは難しい。

車屋で働くよりも、趣味で車いじりがしたかった。

他人の車を触りたいわけじゃない。

 

たまたま父にそんな話をしていると、

 

「お父さんの知り合いに腕のいい職人さんがいる。その人が弟子を探してるんだが、お前、手先器用だから行ったらどうだ?

頑張れば、頑張るだけ稼げるぞ。」

 

そう言われ、さっそく親方のところに行った。

 

当時、バブル絶頂期。

建築現場で腕の良い職人として働きまくっていた親方は、一言で言うと’ギラギラ’だった。

 

腕にはロレックス。

首には金色の重そうなネックレス。

ポケットには札束。

 

僕は魅了された。

「なんていい所や。」

 

人付き合いの良い悪いは関係ない。

技術があれば、こんなにも儲けられる。

 

1日仕事をして、終わると親方がポケットからお金を取り出し

「ありがとうな。また頼むで。」

と手渡しで渡される。

 

建築の現場での仕事はとても楽しかった。

親方にも良くしてもらい、高校を卒業してからも、就職活動など一切せず、そのまま職人の道に進んだ。

 

職人として僕は10年働いた。

その間に、立てなくなるほどのギックリ腰を3回経験した。

 

病院に行っても、痛み止めと湿布薬が出されるだけ。

薬を飲んでも動けない。

 

職人の仕事は現場に出るからお金がもらえる世界。

休めば休むだけ、給与は下がる。

 

元気に働けるか否かが死活問題になる。

 

痛くて動けないことよりも、現場に出れない恐怖が強かった。

’誰でも何でもいいから、治してくれ’

すがるような気持ちだった。

 

腕が良いと聞けば、鍼灸も整体も色々行った。

 

その中で抜群に良かったのが、カイロプラクターの岡田先生の治療院だった。

 

生まれたての子鹿のように、ぷるぷる震えながら立ち上がっていたのに、

一度施術してもらうと、スッと立ち上がれた。

 

「先生!何これ、すごいな!」

口のききかたも知らない20代の茶髪に言われ、

岡田先生は優しくにっこり微笑んだ。

 

「それは良かった。

でも、ギックリ腰は予防が大切だよ。

忙しい毎日で無理が溜まってギックリ腰になる。

 

痛くなる前に、通うのがオススメだ。」

そう言って笑った。

 

だけど、僕は楽になったらまた元通りの生活に戻った。

がむしゃらに働き、がむしゃらに遊んだ。

 

そして20代後半の時。

僕は咳が止まらなくなった。

 

まだアスベストの危険性が認識される前。

そんな危険があるなんて知らない現場では、防塵マスクなんてせず、無防備な状態で解体作業をしまくっていた。

 

すると、咳が止まらず、微熱も続き、息苦しくなった。

病院に行っても気管支炎と言われ、薬が出されるが、

どうしても咳が止まらない。

 

眠りが浅くなり、疲れが取れなくなった。

 

僕は内臓の丈夫さには自信があった。

入院歴なし。

点滴もしたことがない。

 

こんなにも長く続く咳は初めてだった。

 

病院に行っても埒があかない。

 

しかし、どうしたものか。

 

その時、岡田先生という駆け込み寺を思い出した。

 

「でもカイロプラクティックって、内臓の問題も対応してくれるんだろうか。」

 

すがる思いで電話をすると、なんとかなるかもしれないから来て欲しいと言ってもらった。

岡田先生が背中を確認する。

 

「ここだね。」

そう言うと、身体をくねらせ圧をかける。

コキッ

小さく音がなった。

すると、スッと空気が入ってきた感覚があった。

 

「あっ、息が出来る。」

そう思った。

 

そして何かあったら駆け込める場所を担保した僕は引き続き職人として働いていた。

しかし30歳の時、仕事が楽しくないと思い始めた。

 

今までは新しい現場、やったことのない仕事内容、挑戦出来るワクワク感があった。

 

しかし10年仕事をしていると、’はいはい これね’と慣れた仕事が増えた。

新鮮さがない。

 

これから20年、30年と慣れた仕事をするだけの日々になるのか。

それはどうしても嫌だった。

 

嫌だと思うと、仕事に身が入らなくなった。

 

普通なら、次の職を探してから仕事を辞めるだろう。

でも僕は、決めたら即決。

 

次なんて決めずに、仕事を辞めてしまった。

 

既に結婚していた僕は、奥さん「仕事辞めてきた。」とだけ言った。

 

すると奥さんは「そう。次やりたいこと見つかるといいね。」とだけ言った。

僕は奥さんと結婚して良かった。そう再確認した。

 

とは言え、遊んで暮らしていられない。

自分探しにとオシャレに旅行なんて行ってられない。

父譲りのギャンブルでとりあえず稼いでいた。

 

誤解のないように言っておきたい。

借金まみれのギャンブラーではない。

本気で勝ちにいってパチンコに通い、生活するくらいのお金をしっかり稼いでいた。

 

そんなパチンコ通いの生活をしているときに、ふと岡田先生を思い出した。

 

職人の時は忙しくて行けなかったが、今は時間がある。

パチンコで1日座って球を打っていると、腕も肩も凝る。

 

久しぶりに受けたカイロプラクティックの施術。

 

いつものように’今すぐどうしても治して欲しい苦痛’があるわけではなかったが、身体にある色んな歪みや不調を指摘され、整えてもらった後の爽快感はすごかった。

 

僕は何気なしに

「次は先生みたいな仕事しようかな。」

そう言った。

 

すると岡田先生はいつもの笑顔で

「それはいいね。

ここにはカイロプラクターを養成する学校もあるんだ。

日本にはまだまだ腕の良いカイロプラクターが少なくて。

君は長年患者として治療を受けて、その価値を知ってくれているから、今度は施術する側にたってもらえると嬉しいな。

もし君がその気になったなら、入学を推薦しておくよ。」

 

今までは建物を相手にしてきたけれど、今後は身体を相手にするのもいいな。

この仕事も腕一本でやっていける。

 

「先生、学校入るわ!」

 

即決だった。

学校への入学が決まったが、通学は4月からだった。

入学するまでの期間、時間がある。

どうせカイロプラクターになるなら、カイロプラクターがいる場所で働きたいと思った。

 

岡田先生に相談すると、教え子である塩川先生が務める鍼灸整骨院が僕の住む家の近所にあると言う。

アルバイトを募集しているか分からないけれど、一度相談してみたらどうだろう。

 

そう聞いてすぐに電話したのが山中鍼灸整骨院だった。

 

初めての就職活動。

初めての履歴書。

初めての面接。

 

面倒くさいと思いながらも履歴書を用意して、

普段着のまま乗り込んだ山中鍼灸整骨院。

 

1F中央にある机で待たされる間、

沢山居る患者さん達の視線にメンチを切って対抗していた。

 

「待っている間記載してください」と言われて渡された紙に、色々書かされたが、その中に

Qこの院で将来どうなりたいですか?

という問いかけに

 

世界一のカイロプラクター

 

と書いた。

まだカイロプラクター養成学校にも入る前のカイロのカの字も知らないのに。

 

ほぼため口で受けた面接だったが2日後に採用の連絡があった。

なぜ採用されたかは謎だが、おかげで僕は、岡田先生と同じ治療家の世界に入る一歩を踏み出せた。

 

当時の山中鍼灸整骨院の1Fは保険施術を専門にしていた。

治療補佐が僕の最初の仕事だった。

 

山中院の1Fは常に患者さんで溢れていた。

その中には常連さんが何人も居た。

 

僕はその常連さん達にとても可愛がってもらった。

 

「先生新しい子?なんや金髪やん。」

「そうなんです、すみません。」

あっはっは。

 

会話の最後は何故か一緒に笑い合うのがお決まりになった。

 

「先生肩揉んでくれへん?」

「はいっいいですよ。」

「なんや全然あかんやん!変わってみ、ワシが揉んだるわ。」

「えっ、いいんすか。じゃ、お言葉に甘えて。おお、力強いし、いいところに当たりますね。」

あっはっは。

 

カイロプラクターの学校に通い、

1年目

「先生学校行きだしたんか?なんやどんなこと勉強したんか、ワシの身体貸したるで。」

 

2年目

「先生最近仕事も板についてきたんじゃない?腰楽になったわありがとう。」

 

3年目

「先生、もう3年目で卒業するんやってな。すごいやん!先生の手つき最初と違うもんな。もう立派な先生や。」

 

もともとコミュ障で、接客は苦手なはずだったが、

この常連さん達が温かく受け入れてくれる環境だったから、僕は施術が好きになった。

 

話ベタだったから、会話を続かせるために、いつも何かを話していた。

施術技術も会話技術も訓練しまくった。

 

今でも、気が付くとブツブツ独り言のように話続けてしまう。

まだまだ訓練は続いている。

 

カイロプラクターの資格をとり、先生と言われる立場になった。

 

近所のスーパーで患者さんに会い、「先生ー!」と呼ばれたときは、最初は自分のことと分からず、

「えっ?えっ?僕?」と変なリアクションを取ってしまった。

 

先生と呼ばれると、嬉しいし恥ずかしい。

早く、本当に岡田先生のような先生と呼ばれるにふさわしい技術も人格も磨かねばと言われる度に肝に銘じた。

 

「先生白衣が似合うわ!それ着てたら先生って感じがする!」

そう言われて、僕は周囲がTシャツやポロシャツになっても、ずっと白衣姿を貫いた。

 

僕の手が、目の前の人の喜びになる。

そんな治療家としての喜びは患者様から教えてもらった。

 

僕の技術を育ててくれたのも患者様たちだ。

 

僕はもう20年ちかく飽きずに施術をし続けている。

多分死ぬ間際まで施術をしていると思う。

 

施術は推理小説のようなドラマがある。

犯人は痛みの根本原因。

患者様は目撃者。

施術家である僕は、警察や探偵の役だ。

 

僕は岡田先生にそう教えてもらった。

施術をすればするほど、その通りだと実感出来る。

 

僕は目撃者である患者様から、目撃証言を聞き出す。

目撃者は、実はちょっぴり事実と違う嘘をついてしまうこともある。

思い込みや、誤解が原因で。

僕はそれも加味した上で、目撃情報や犯行現場を元に犯人を推理する。

 

そして犯人を捕まえた時、目撃者である患者様と共に喜び合う。

 

この謎解きは2つとして同じはない。

火曜サスペンス劇場だって、最後の見せ場はなぜか断崖絶壁。

お決まりのパターンはあるけれど、犯人や事件の内容、その裏にある人間模様はいつも違う。

 

施術も一緒だ。

毎回違う。

だから面白い。

 

 

カイロプラクターは日本では国家資格ではない。

でも僕の元には沢山の患者様たちが来てくれる。

ここまでの施術技術に育ててくれたのは、身体を預けてくれた患者様たちだ。

 

あまのじゃくな僕に、指図することなく、

得意な事や好きなことに寄り添い、一緒に笑って、一緒に困って

ワガママをお互い言い合いしながら、僕の人間性は磨いてくれたのはヤマナカグループのオーナー 山中先生だ。

 

そして僕に大切な気付きを与えてくれたのは岡田先生だった。

 

岡田先生はご自身も腕一本で僕も含め沢山の患者様を救っただけでなく、

技術を伝え、腕のいいカイロプラクターを育てた人だった。

 

その岡田先生は、もうこの世には居ない。

 

他界される少し前、僕は岡田先生の施術を受けに行った。

近況を話ながら、

 

「久しぶりに僕の身体も施術してもらえないかな?」

そう言ってもらい、岡田先生へ施術をした。

 

「いいカイロプラクターになったね。」

いつもの優しい笑顔だった。

 

「僕が教えた通りにする必要はないよ。

カイロプラクティックは鍼灸などに比べたら、まだまだ生まれてから間もない治療技術だ。

これからどんどん治療経験を重ねて、進化させていく必要がある。

君がしているカイロプラクティックも、その流れの1つだ。

進化を止めず、どんどんいい技術に磨いていってほしい。」

 

そう言って頂いたのが、最後の会話になった。

 

お葬式が終わり、寂しい気持ちを抱えながらも、日々先生からの教えを大切に患者様に向き合っていた。

すると岡田先生の奥様とご子息が僕の施術を受けたいと予約を入れてくれた。

 

岡田先生の弟子には、有名で腕のいいカイロプラクターは沢山いる。

それなのに、わざわざ僕の施術を受けたいと言ってくれた。

 

施術が終わると奥様に言われた。

「主人が生前いっていたんです。

僕の手に一番似ているのは、あなただって。」

 

ご子息がうなずきながら付け加えた。

「父の手の感触が恋しくて、ここに来ました。

父の言った通りでした。

これからも、その手で沢山の患者様を元気にしてあげて下さい。」

 

僕は、左利きのあまのじゃくだ。

おだてられたり、褒められても、素直に喜べない。

でもこの時ばかりは違った。

 

沢山の導きを与えてくれた岡田先生の言葉。

そのご家族からの感謝の言葉は、僕の宝物になった。

 

そして、その言葉をもらえたのは僕一人の努力ではない。

今まで山中院で出会った山中先生含め、いろんな先生達やスタッフとの日々と支えてくれた僕の奥さんの存在。

そして新人の頃から温かく受け入れ、身体を預けてくれた懐の深い常連さん達。

そして今。

僕に会うだけで元気になったと言ってくれるような、毎回違う推理ドラマを抱えて着てくれる患者様たち。

 

そんな沢山の出会いの中で、この手が出来上がった。

 

そして人生100年時代。

僕は50歳。

折り返し地点にたった。

 

まだ50年ある。

まだ50年さらに磨き上げられる。

 

僕は密かに、弁慶のように施術しながら立って死にたいと思っている。

最後の最後に施術をさせて頂く患者様まで満足させられるように。

 

僕の人生はまだ、折り返し地点だ。

 

 

 

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